かつて尾久は「三業地」として賑わったまちでした。三業地とは料理屋(旅館)・芸妓屋・待合茶屋が集まっている地域で、いわゆる花街のことです。
三業地としての尾久の発展の歴史は大正3(1914)年にこの碩運寺で温泉が発見されたことから始まります。ある日、怪我をして足から血を流した子どもがお寺の井戸で傷口を洗うと、すぐに血が止まりました。その様子を眺めていた松岡大機住職は不思議に思い、井戸水を検査してもらうとラジウムを含んだ鉱泉であることが判明しました。そしてこの温泉を「寺の湯(後の不老閣」と名付け、湯治場を開きました。
この「寺の湯」はすぐに評判となり、周囲にも温泉旅館が次々と建ち、それを目当てにやってくる客のために三業が発達しました。また、温泉が発見される前年の大正2(1913)年には王子電気軌道(現在の都電荒川線)が開業し、交通の便が良かったことも手伝い、三業地として大いに賑わいました。あの有名な「阿部定事件」は、昭和11(1936)年に尾久の待合茶屋「満佐喜」でおこったものです。
しかし第2次世界大戦後、周辺に工場が次々と建ち、こぞって地下水を汲み上げた影響により、温泉は枯渇しました。これに伴い尾久三業地も徐々に衰退していき、現在では歓楽街として賑わっていた頃の面影はありません。
|