荒川ゆうネットアーカイブ
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史跡・名所

このページでは、荒川区の史跡・文化財の残る名所を紹介しています。
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見学する場合には次の点に注意してください。
●寺社の境内や個人の邸宅では、まわりの人に迷惑がかからないように静かに鑑賞しましょう。
●一般公開をしていない文化財もあるのでご注意ください。
(事前に所有者または管理者に連絡をとり指示に従ってください。)
●写真撮影や拓本採取をする場合は、文化財の所有者の許可を得てください。
日暮里 NIPPORI AREA

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永井尚志(ながいなおゆき)の墓(本行寺)
所在地 西日暮里3-1-3 周辺地図 地図


 永井尚志は江戸末期の幕臣で、外国奉行・軍艦奉行・若年寄などの要職を歴任した。明治以降も元老院権大書記官などを務め、激動の時代に活躍した。明治24年(1891)7月、76歳で没した。
(都指定旧跡)



市河寛斎(いちかわかんさい)・米庵(べいあん)の墓(本行寺)
所在地 西日暮里3-1-3 周辺地図 地図


 儒者市河寛斎は博学で、特に漢詩に長じ、菊池五山・柏木如亭・大窪詩仏らの門人を輩出した。文政3年(1820)7月、72歳で没し、本行寺に葬られた。墓碑銘は寛斎の長子で、書家の市河米庵の撰による。米庵もまた本行寺に葬られている。
(都指定旧跡)



木造毘沙門天像(もくぞうびしゃもんてんぞう)(啓運寺)
所在地 西日暮里3-2-14 周辺地図 地図


 啓運寺はもとは上野山下にあったが、幕末の上野戦争の兵火に逢い、明治18年(1885)、現在地に移転した。この毘沙門天像は境内の毘沙門天堂に安置されている。運慶の作であると伝えるが、台座の裏に墨書銘があり、寛政9年(1797)に仏師伊東光雲が造立したことがわかる。
 毘沙門天は多聞天ともいわれ、四方を守護する護法神である四天王のひとつであるが、独立して福徳富貴の神としても信仰される。



経王寺山門(さんもん)(経王寺)
所在地 西日暮里3-2-6 周辺地図 地図


 慶応4年(1868)、上野戦争の時に谷中の天王寺が彰義隊(しょうぎたい)の分営とされた。その際、敗走した隊士が当寺に隠れたため、経王寺は官軍の包囲を受けることとなった。山門にはその際の弾痕が今も残っている。門の右側には門番所が併置されており、木造建築の門の一つの型を示す貴重なものといえる。



江戸六地蔵(えどろくじぞう)(浄光寺)
所在地 西日暮里3-4-3 周辺地図 地図


 浄光寺の山門をくぐって左手に、高さ1丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩立像がある。元禄4年(1691)、空無上人の勧化(かんげ)により江戸東部六か所に六地蔵として開眼(かいげん)された。以前は、門のかたわらの地蔵堂に安置されていたものであり、門前は「地蔵前」とも呼ばれていた。



道灌山(どうかんやま)
所在地 西日暮里3-5 周辺地図 地図


 西日暮里4丁目付近の台地は、道灌山と呼ばれ、江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山、そして下総国府台(こうのだい)(千葉県市川市)などを望むことができた。
 当時は薬草が豊富で、年中採取者が訪れてきたという。また「虫聴き」の名所としても知られ、涼を求めて人々が集まったところでもある。歌川広重の錦絵や正岡子規の歌などによっても当時が偲(しの)ばれる。



滝沢馬琴筆塚(たきざわばきんふでづか)の碑(青雲寺)
所在地 西日暮里3-6-4 周辺地図 地図


 戯作者(げさくしゃ)滝沢馬琴(1767〜1848)は精力的な著作活動のうちに多量の禿筆(とくひつ)(使い古しの筆)を残した。これを供養するため、文化6年(1809)に築いたのが筆塚である。文化6年銘のこの碑には、建立の由来、馬琴の生い立ちと業績が記されている。額字の「◆聿冢名(ふでをうずめしつかのめい)」は、国学・漢学・考証学者で有名な狩谷◆斎が、由来は亀田鵬斎が撰文し筆をとった。(区指定文化財)



松林伯円(しょうりんはくえん)の墓[初代・二代](南泉寺)
所在地 西日暮里3-8-3 周辺地図 地図


 初代松林伯円は伊藤燕凌・石川一夢とともに三名誉と称された講談の名人。安政2年(1855)10月の大地震で没。2代目伯円は初代伯円の芸養子となり、「鼠小僧」「天保六花撰」「高橋お伝」など70余の講談を創作している。明治38年(1905)2月に没。ともに南泉寺に葬られている。(都指定旧跡)



延命院(えんめいいん)の大椎(おおしい)
所在地 西日暮里3-10-1 周辺地図 地図


 延命院の大椎は、幹の周囲約5.3メートル、高さ約16メートル、枝張り南北約23メートル、東西約14メートルで、樹齢600年を越えるという。
(都指定天然記念物)



日暮里延命院貝塚(にっぽりえんめいいんかいづか)
所在地 西日暮里3-13付近 周辺地図 地図


 昭和62年に発掘調査が行われた縄文時代の貝塚。明治21年(1888)、東京帝室博物館の関保之助氏によって発見され古くから知られる。この時の地点は、延命院の西側の崖のあたりであろうかと推定される。貝層はハマグリを主体とし、ヤマトシジミ、カキなどの貝類、アジ類、スズキ属などの魚骨、イノシシ・シカなどの獣骨から形成されていた。
 縄文時代前期(黒浜式・諸磯式など)、縄文時代中期(阿玉台式・勝坂式・加曽利E式など)、縄文時代後期(堀之内式・加曽利B式など)の土器のほか土製品、石器、骨角器などが多数出土した。なお、出土品は区指定文化財となっている。



養福寺仁王門(におうもん)(養福寺)
所在地 西日暮里3-3-8 周辺地図 地図


 宝永年間(1704〜11)の建築と伝える。表側に安置されている仁王像の胎内(たいない)から、宝永4年(1707)の銘札(めいさつ)が発見されており、門柱の上部等の木鼻(きばな)・蟇股(かえるまた)などに施された渦巻き状の模様の特徴から、銘札とほぼ同年代のものと推定される。裏側には四天王のうちの広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)の像が安置されている。仁王門は、近世後期成立の『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』の「日暮里惣図」にも描かれている。
(区指定文化財)



談林派歴代(だんりんはれきだい)の句碑(養福寺)
所在地 西日暮里3-3-8 周辺地図 地図


 西山宗因(にしやまそういん)を祖とする談林派歴代の句碑。梅翁花樽(ばいおうかそん)碑・雪の碑・月の碑・菱形標石の4基の石碑からなる。このうち梅翁花樽碑は、寛政4年(1792)に2代井原西鶴の百年忌を記念して、谷素外(たにそがい)が供養のため建碑したものである。談林派の初祖から6代に至るまでの句と没年が刻まれている。(区指定文化財)



*文化財についてさらに詳しくお知りになりたい方は、各報告書をご参照下さい。(区内図書館や区役所2階の情報提供コーナーでご覧になれます。区役所3階の教育委員会社会教育課、及び荒川ふるさと文化館では有償頒布もしています。)

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問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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