荒川ゆうネットアーカイブ
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史跡・名所

このページでは、荒川区の史跡・文化財の残る名所を紹介しています。
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見学する場合には次の点に注意してください。
●寺社の境内や個人の邸宅では、まわりの人に迷惑がかからないように静かに鑑賞しましょう。
●一般公開をしていない文化財もあるのでご注意ください。
(事前に所有者または管理者に連絡をとり指示に従ってください。)
●写真撮影や拓本採取をする場合は、文化財の所有者の許可を得てください。
南千住 MINAMISENJYU AREA

荒川区の史跡・名所その他のエリア 荒川・町屋 尾久 日暮里 坂・渡し

彰義隊士(しょうぎたいし)の墓(円通寺)
所在地 南千住1-59-11 周辺地図 地図


 慶応4年(1868)5月の上野戦争では、多くの彰義隊士が戦死した。当時、円通寺の住職であった仏磨和尚と上野寛永寺御用商人の三河屋幸三郎が、官許を得て遺体を円通寺に埋葬した。これが縁となって、明治40年(1907)、寛永寺の黒門(区指定文化財)が円通寺に移されることになった。(都指定旧跡)



浄閑寺過去帳(じょうかんじかこちょう)(浄閑寺)
所在地 南千住2-1-12 周辺地図 地図


 浄閑寺は廓(くるわ)の遊女を葬った寺として知られる。ここから日本堤(にほんつづみ)を浅草方面へ行ったところに、かつて新吉原があった。寛保3年(1743)〜大正15年(1926)に至る10冊の過去帳が現存する。当寺には檀徒(だんと)のほか、遊女やその子供・水子などの名前が多く記されており、薄幸の遊女達の姿を偲(しの)ぶことができる。(区指定文化財)



首切地蔵(くびきりじぞう)(延命寺)
所在地 南千住2-34-5 周辺地図 地図


 江戸時代のお仕置場(刑場)は品川の鈴ケ森と千住の小塚原の2か所である。小塚原の刑場は、間口60間余(約108メートル)、奥行30間余(約54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、斬罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑が執行された。首切地蔵は、この刑死者の菩提を弔うために寛保元年(1741)に建てられた。もとは南千住貨物線の南にあったが、鉄道工事により現在地に移された。かたわらにある題目塔は元禄11年(1698)の造立で、慶応3年(1867)の造刻がある。(区指定文化財)



『伊勢物語(いせものがたり)』の歌碑(石浜神社)
所在地 南千住3-28-58 周辺地図 地図


 文化2年(1805)に家田久儔が建てたもの。『伊勢物語』は平安時代の中頃に成立した歌物語で、第九段「東下(あずまくだ)り」の中に、主人公が隅田川の渡しで都を偲(しの)んだ一節がある。この碑はその一節「名にしおはヾいざことヽはん都鳥わか思ふ人はありやなしやと」を刻み、下部に渡し舟の絵が描かれている。



亀田鵬斎(かめだほうさい)の詩碑(石浜神社)
所在地 南千住3-28-58 周辺地図 地図


 亀田鵬斎(1752〜1826)は、隅田川沿岸に多くの詩碑を残した。この碑は、文政7年(1824)に建立されたもので、前面に隅田渡津の歴史を詠んだ鵬斎の七言律詩2首と、稲垣成斎による建碑の由来が刻まれている。鵬斎は詩文・書にもすぐれた儒学者であったが、寛政異学の禁で異端の筆頭とされた。晩年、金杉で暮らし「金杉の酔先生」と呼ばれ親しまれたという。 (区指定文化財)



真先銭座(まさきのぜにざ)跡
所在地 南千住3-40付近 周辺地図 地図


 江戸時代、隅田川沿いの橋場周辺には銭座が置かれていた。このうち真先銭座は、江戸時代末期の文久2年(1862)、橋場町にあった酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷地跡に、天保通宝鋳造のため設置された。当時の絵図などから、現在の石浜神社から旧隅田川貨物駅引込線あたりまでの地と推定される。平成2年3月の試掘調査では天保通宝銭等が出土した。



笹(ささ)の団子(だんご)の如来(にょらい)(西光寺)
所在地 南千住5-16-19 周辺地図 地図


 西光寺は賢誉長公(天文8年、1539没)が開いた寺で、真覚山菩提院という。芝増上寺の末寺。本尊の阿弥陀仏は、高さ約1メートルの坐像である。江戸時代には「病ある者、白団子を笹の枝に刺して祈願すれば霊験あり」といわれ、それ以来「笹の団子の如来」と呼ばれるようになった。



天王社(てんのうしゃ)の大銀杏(おおいちょう)(素盞雄神社)
所在地 南千住6-60-1 周辺地図 地図


 素盞雄神社境内は、古代より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏など大木が林立していた。『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。この大銀杏は、幹の周囲約3.3メートル、高さ30メートルである。
 この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承をもつことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。



松尾芭蕉(まつおばしょう)の碑(素盞雄神社)
所在地 南千住6-60-1 周辺地図 地図


 「奥の細道」の千住矢立て初めの一節と、芭蕉坐像を刻んだこの碑は、文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、俳聖を偲(しの)んで千住周辺の文化人たちが建立したものである。この碑から、当時の千住宿を中心とする文化人たちの交流と盛んな活動ぶりをうかがい知ることができる。なお、平成7年、本殿西側に移設された。
 行くはるや鳥啼き魚の目はなみだ(区指定文化財)



庚申塔群[寛文13年銘他](素盞雄神社)
所在地 南千住6-60-1 周辺地図 地図


 素盞雄神社境内には、寛文13年(1673)2月8日銘の観世音菩薩陽刻塔(かんぜおんぼさつようこくとう)、延宝6年(1678)10月17日銘の如意輪観音陽刻塔(にょいりんかんのんようこくとう)、文化8年(1811)6月吉日銘の文字塔(もじとう)からなる3基の庚申塔が安置されている。区内でも屈指の作例で、庚申信仰と浄土信仰と月待(つきまち)信仰の習合がうかがえる。



山王清兵衛(さんのうせいべえ)(日枝神社)
所在地 南千住7-23-18 周辺地図 地図


 江戸時代、日枝神社は山王社と呼ばれた。旧中村町(千住宿)の鎮守で、正和5年(1316)に建てられたと伝える。この社の入口にあたる旧砂尾堤(すなおづつみ)土手北端に歯神清兵衛(はがみせいべえ)が、虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀(まつ)ったという伝承がある。俗に山王清兵衛と呼ばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨(いかり)をくわえた図の絵馬を奉納する習わしであった。千住の歯神として有名であった。



*文化財についてさらに詳しくお知りになりたい方は、各報告書をご参照下さい。(区内図書館や区役所2階の情報提供コーナーでご覧になれます。区役所3階の教育委員会社会教育課、及び荒川ふるさと文化館では有償頒布もしています。)

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問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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