昭和16(1941)年12月8日に日本軍はハワイの真珠湾を攻撃し、政府はアメリカ、イギリスに宣戦布告をして太平洋戦争が始まりました。当初は戦勝気分に酔いしれていたものの、昭和17(1942)年には、早くも戦局にかげりがみえてきました。
昭和18(1943)年には、金属資源の供出により、校庭に建てられていた二宮金次郎の銅像までも没収させられ、各学校では非常時に備え、防空壕や防水貯水用としてプールが整備されました。更に空襲対策のために避難訓練、救護訓練、警護訓練、防火訓練等の様々な訓練が開始されました。
しかし、同年7・8月に日本の同盟国・ドイツの都市で米英空軍による絨毯爆撃により大多数の死傷者が出たことを受け、日本でも今後予想される絨毯爆撃への対策として建物疎開や人員疎開が推進される事になりました。学童疎開については、都内で食料不足が深刻だったことも一因ですが、空襲時の足手まといを無くし、安全な土地で次代の戦力となる担い手を保護育成することが趣旨でした。
昭和19(1944)年、縁故疎開が始まります。地方に縁故がない子どもは、原則として集団疎開に加わりました。
荒川区は福島県が集団疎開先として決まり、児童は住み慣れた荒川区と親元を離れ、遠く知らない土地で疎開生活を送ることになりました。
その年の暮れから昭和20(1945)年にかけて、空襲は激しさを増していきました。頻繁になる空襲の中で、荒川区の人口は激減しました。
今回の特集は、集団学童疎開と空襲を体験された方に60年前の体験を伺いました。
参考文献 ● 福島の空の下で 荒川区学童集団疎開50周年記念誌 荒川区教育委員会/目で見る荒川区50年のあゆみ 荒川区史資料集1 荒川区企画部広報課/かたそね 学童疎開の記録と思い出 第六日暮里小学校疎開団船引会/荒川区史 上巻 東京都荒川区/荒川区史 下巻 東京都荒川区/ビデオ:荒川区、戦災の記憶〜発空襲そして大空襲へ〜 荒川区広報課/ビデオ:その時、子どもたちは〜学童集団疎開の記憶〜 荒川区広報課

●荒川区の人口推移

●年表

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