終戦を20歳で迎えたとのことですが、当時の様子はいかがでしたか?
女学校時代は、英語は敵国の言葉ということで教えてもらえませんでした。挺身隊として落下傘の糸止めをするのに、板橋にある軍需工場まで働きに行ったこともあります。
卒業後は有楽町にある第一生命に勤め、日暮里から有楽町まで小一時間通勤していました。秘書課勤務でしたが、戦時中の人手不足で、どの部署からも入金確認作業にかり出されていました。
戦局が激しくなり有楽町駅が空爆された時は、第一生命ビルの脇に死体が山の様に高く積まれました。先程まで生きていた人に縄がかけられ、ツルハシで物のようにトラックへ引きずり上げられる様を見て、気の毒で涙が出ました。
いつ何処で空襲があるかわからない中で、次は自分の番かもしれないという恐怖感が常にありました。
日暮里空襲の体験についてお聞かせください。
自宅は冠新道沿いの3階建で、父が酒屋を営んでいました。
昭和20年4月13日の夜に空襲に会い、父や母を先に避難させ、私は最期にこの家を出ました。
冠新道の菓子屋・田月堂のご長男が、砂糖の缶を両手に引きずりながら「本田(旧姓)さん、もうダメだよ!早く早く!」と呼びに来てくださいました。
私は、水をいっぱい張ってある風呂釜に茶碗や鍋をつっこんで、焼けてしまうかもしれないと思いながらも3階までの戸締まりをキチンとし、田月堂さんと一緒に諏方神社に向かって逃げました。
外に出ると、顔中がべとべとして、ガソリン臭いのです。先に墨田区で空襲にあった兄から、燃えやすくするためにガソリンを撒くという話しを聞いていたので、驚きと共に恐怖を感じました。タオルを水に濡らし口に当てて、必死に逃げました。「命からがら」とは、まさにあの日のことです。
飛行機は見えないのですが、グゥーーという旋回音が聞こえるのです。その間にも次々に火が燃え移っていき、バリバリバリッという家屋の倒れる大きな音、火の勢いで風がゴォーーと吹く音がします。
第六日暮里国民学校の木造校舎の上に、照明弾が落ちて濛々と火の中に包まれる学校を見ました。皮膚が赤むくれになる程の大火傷を負った方や、火の中を逃げ惑う数頭の馬などを良く憶えています。
諏方神社は逃げてきた人で溢れ帰っていました。母は座布団1枚だけ抱えて逃げており、その上にチョコンと座って放心状態でした。
神社の高台から眼下を見下ろすと全部火の海。紫色や黄色の様々な色の炎が見え、焼夷弾がこれでもかというくらいに落ちていきます。
そして、一夜にして全てが灰になりました。
翌日の様子を教えてください。
早朝、様子を見に行った人が「熱くて先に進めない。」と戻ってきました。
母を残し父と2名で家に向かいましたが、とにかく熱いのです。そこかしこから破裂した水道管からの水が勢い良く噴きだしていましたので、その水を全身にかけながら、焼け跡を進みました。
3階建の我が家が道に焼け崩れ燻れ、焼け跡に店の金庫が熱で真っ赤になって残っています。父は金庫の横に立ち、涙をこぼしていました。
全てを失った事よりも、父が可哀想で悔し泣きをしました。苦労して店を大きくしてきた父のあの日の無念を思うと、今でも心が苦しくなります。
今のこどもたちに伝えたいことは。
私の青春時代はまさに戦争中で、物がない中で創意工夫をし、分け合って助け合って生きてきました。今は幸せすぎて物の有り難みを忘れてしまっているのではないでしょうか。
「物を大切にしなくてはいけない」と言うことを孫達にも言い聞かせています。