荒川ゆうネットアーカイブ
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荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
内容は、掲載当時のものとなります。

生まれも育ちも荒川区VOL.3「元祖梅ジャム」

「梅の花本舗」
住所:荒川区東尾久1-3-11
TEL:03(3892)8851
定休日:土・日
営業時間:AM9:00〜PM5:00
※基本的には製造のみです。地方等の場合は受注もあり(送料はお客様負担)。取引先などを紹介するので、お問い合わせください。

「元祖梅ジャム」の製造工程はこちらをクリック!
「元祖梅ジャム」の作り方はこちら

荒川区発祥の品々を紹介する「生まれも育ちも荒川区」。
今回は「元祖梅ジャム」です。
梅ジャムを作って60年の高林博文さんにお話を伺いました。

昔、子どもだった大人たちが惹かれる味。

この味を知っている人なら、パッケージを見ただけで口の中にすっぱさが溢れるのでは?

昔は駄菓子と言えば、子どものお菓子だったけど、今は飽食の時代。お菓子もカラフルでいろんな味付けのものがあるから、子どもの目はそちらに行きがち。「梅ジャム」などの駄菓子を好んでくれるのは、大人=昔の子どもが多いですね。大人になると、子どもの頃に食べた味っていうのは懐かしいんだね。昭和20〜30年代に流行った駄菓子は、多くが今はもうなかったりする。その中で、「梅ジャム」は「まだ売ってる、懐かしい!」そういう感じなんだと思います。

「梅ジャム」を作り続けて60年と聞きました。

昭和22年、16歳の時から作っています。「家の経済を助けたい」それが、この商品の心、原点です。終戦後の秋口、疎開していた富山から父と姉が残っている東京に戻り、バラックで暮らしながら焦土をひっくりかえして畑を作り、その合間に荒川、台東、墨田、文京、御徒町とあちこちを自転車で回っていました。「何かないか、何か稼ぎたい」。町を探索するとヒントがいっぱいありました。雷魚、イワシ、たわし…。それらを露天で売りました。
当時、尾竹橋通りに露天商が並んでいたんです。鑑札のない私は、一番隅っこで木箱の上にイワシを盛った皿を置いて売りました。そこに、強面の露天商の一人がやってきて、鑑札を持たずに商売していると木箱を蹴っ飛ばして怒りました。皿は割れイワシは路上に…。謝る私の眉間を彼は革靴蹴りました。私は額から血を流しながらイワシを拾い集め家に帰りました。父にケガのことを聞かれましたが、私は事情を言いませんでした。
それとは反対に、土地勘のない巣鴨駅近くの路上でたわしを売っていたら、「ここより巣鴨地蔵の方が売れるよ」と、通りすがりのおばあさんが親切に教えてくれたこともありました。
そうして家計を助けようと物売りしていた時、父の知り合いからリンゴの粉末が手に入り、何か商売できないかということになりました。検討した結果、味付けしたリンゴの粉を三角袋に入れ、麦わらストローで吸う駄菓子を、当時全盛だった「紙芝居」に納めることになりました。そうして紙芝居屋さんと接点ができ、紙芝居屋さんが、せんべいにソースを塗って売っていることを知りました。

幼稚園や保育園などの行事では、おせんべいなどに塗って食べたりする。行事向けには、300g入りパッケージもあります。

乾物屋の隅に、くず梅の梅肉が売られていたんですよ。当時の梅は、弁当箱に穴があくほど、放っとけば塩をふくほどの味。「なんとかなめやすくならないか、紙芝居やさんのせんべいに塗る商品にならないか」と、暇さえあれば鍋に梅肉を入れて、電気コンロの前でほどよい味加減を研究し尽くしました。ようやく「これだ」という味ができて、紙芝居の親方さんに納めました。これが、「梅ジャム」の誕生になりました。醤油の木樽に20kg詰めで納めると、親方さんが抱えている20〜30人の紙芝居屋さんに売るんですね。紙芝居で使ってもらえたことで、次から次へと注文が入るようになりました。

子どもたちにウケた理由は?

毎日味付けを加減しながら炊いた梅肉を、袋詰めの機械にセット。「梅ジャム」はこうして商品になります。

世の中の復興と共に、それまで紙芝居でしか生計が立てられなかった人も、工場などに勤めるようになりました。すると紙芝居とバトンタッチするように、今度は駄菓子屋さんが増えてきました。そこで、「梅ジャム」は、樽売りから小袋入りに変わり、また爆発的に売れました。なんで「梅ジャム」が大ヒットしたのか。当時の子どもたちは、毎日外で走り回って遊んでいました。汗かいて体使って遊ぶ子どもには、ぴったりの刺激だったんだと思います。

時代と共に「梅ジャム」は永遠です。

「梅ジャム」には、語り尽くせぬ歴史物語がたっぷり。熱心に語ってくださった高林博文さん。

町にたくさんあった駄菓子屋さんが、子どもの減少などで減り始めると、今度は縁日屋さんが「梅ジャム」を扱ってくれるようになりました。振り返ってみると、紙芝居屋さん、駄菓子屋さん、そして縁日屋さん。それぞれに栄枯盛衰があって、「梅ジャム」を作ってきた私たちも、その流れの中で、富士山のてっぺんの時代もあれば、谷底の時代も味わいました。その時その時に、思い出深い人がいます。

全国に向けて出荷される「梅ジャム」。斬新なパッケージデザインもすべて高林さんのオリジナルです。

16歳で駄菓子を作り始めて、今日までには「かたぬき」や「えんぴつあめ」といったヒット商品も世に送り出しましたが、60年ずっと作り続けて来たのは、「梅ジャム」だけ。こんなに長く売れるとは思わなかったですよ。「活発に動いてこれだけのことができる人なんだから、もっとデカイことできたかもしれないね」なんて妻は笑いますが、「親をたすけたい」その気持ちで作り始めた「梅ジャム」、これからも作り続けていきますよ。


平成20年7月掲載記事
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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