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川区の歴史はたいへん古く、人びとが居住しはじめたのは、今から2〜3万年前の旧石器時代にさかのぼるといわれます。発掘調査などで確認されている遺跡としては、武蔵野台地の東端の上野台地に位置する縄文時代後期(約4000年前)の日暮里延命院貝塚や縄文時代前期(約6000年前)から弥生時代を中心とした道灌山遺跡などがあり、台地上に人びとの暮らした跡が見られます。
また水運(旧荒川・現隅田川)が人びとの生活に大きな影響を与え、平安時代にはすでに石浜・橋場付近に「隅田の渡し」が置かれていたと推定されます。 |
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承4年(1180)、源頼朝の挙兵にあたり、江戸重長が頼朝の隅田川渡河を阻止するなど、区内にも有力な武士団が成長していました。「小具(おぐ)」「につほり」「三川(みかわ)ケ島(しま)」などの地名も古くからみられ、区内の地域が早くから開発されていたことがわかります。また、中世の文化・交通・交易の状況をうかがうことができる板碑も、区内に数多く残されています |
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正18年(1590)に江戸に入部した徳川家康は、文禄3年(1594)に千住大橋を架け、千住下宿(しもじゅく)は江戸の玄関口としてにぎわいます。区内は上野寛永寺領と江戸幕府の直轄地とからなり、点在する湿地帯は将軍家の放鷹場(ほうようば)(御鷹場(おたかば))ともなっています。道灌山・諏訪台・荒木田の原など庶民行楽の地も多く、とくに日暮里は「ひぐらしの里」とも呼ばれ、江戸時代、庶民の情緒豊かな遊びの場となっていました。 |
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治維新後、荒川区は東京府に編入され、殖産興業政策により、荒川(現隅田川)の水上交通路を利用した官営千住製絨所などの工場群がつぎつぎと建設され、区内の近代化が進みました。 |
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正12年(1923)の関東大震災を契機として、区内の様相は急変します。都心部に人口が流入し、農地は宅地化され、商工業の発展基盤が形成されました。昭和7年(1932)、東京都35区制に伴って荒川区が誕生し、今日に至ります。 |
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