川は、もと三河島と呼ばれた地域で、三河島の地名は戦国時代にすでに見ることができる。法界寺【ほうかいじ】・浄正寺【じょうしょうじ】などに室町時代の板碑【いたび】が伝わっており、中世には開かれていた地域であることがわかる。 江戸時代には寛永寺【かんえいじ】領となり、武家屋敷に出入りする植木職人が多く住んでいた。観音寺は将軍の「鶴御成【つるおな】り」の際の御膳所【こぜんしょ】とされ、名産の三河島菜が献上されたという。