荒川ゆうネットアーカイブ
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荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
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歴史探訪 荒川区の歴史
このページでは、荒川区の歴史や各地区のあらましを紹介しています。
情報提供協力:荒川区教育委員会・荒川ふるさと文化館
荒川荒川区教育委員会発行「あらかわ史跡・文化財マップ」より
荒川ふるさと文化館常設展示「あらかわ史跡・文化財データけんさく」より
荒川のあらまし

川は、もと三河島と呼ばれた地域で、三河島の地名は戦国時代にすでに見ることができる。法界寺【ほうかいじ】・浄正寺【じょうしょうじ】などに室町時代の板碑【いたび】が伝わっており、中世には開かれていた地域であることがわかる。
江戸時代には寛永寺【かんえいじ】領となり、武家屋敷に出入りする植木職人が多く住んでいた。観音寺は将軍の「鶴御成【つるおな】り」の際の御膳所【こぜんしょ】とされ、名産の三河島菜が献上されたという。

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町屋のあらまし
屋の地名は江戸時代から見られるが、室町時代の宝篋印塔【ほうきょういんとう】、板碑【いたび】が伝わっており、はやくから開墾されたことがうかがえる。
江戸時代、はじめは幕府領であったが、のちに寛永寺領となった。

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尾久のあらまし
久は、江戸時代の上尾久村・下尾久村・船方村の一部からなる地域で「小具」「越具」とも書いた。室町時代の文書には「小具郷」とみえる。大林院【だいりんいん】・宝蔵院【ほうぞういん】・華蔵院【けぞういん】・阿遮院【あしゃいん】・満光寺【まんこうじ】に鎌倉・室町時代の板碑が伝わっており、日暮里・南千住に次いで古い歴史を持つ地域といえる。
江戸時代以降には寛永寺領となった。当時隅田川沿いの美しい風景は「江戸名所花暦」の「尾久原桜草」にしのばれる。
明治時代以降には赤レンガで知られる変電所の開業、王電の運行、旭電化の開業など近代化が進んだ。しかし、農村的景観を区内では最後までとどめていた地域でもある。

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日暮里のあらまし
暮里地区は区内でも古い歴史をもつ地域である。JR線沿いの高台や斜面には縄文・弥生時代の遺跡があり、開成学園第二グランドを中心とする道灌山遺跡や日暮里延命貝塚の発掘調査が行われている。
日暮里という地名は、室町時代の古文書・記録に「につほり」「新堀」と見えるのが早い。
江戸時代中期頃には「ひぐらしの里」と呼ばれるようになり、江戸庶民の情緒豊かな遊びの場となった。雪見寺(浄光寺)・月見寺(本行寺)・花見寺(青雲寺・修性院)という別名をもつ寺院が点在する日暮里の地は、風流を好む江戸の文人墨客【ぼっかく】が集まったことで知られ、多くの文学碑が残されている。

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南千住のあらまし
千住は古代〜近代までの史跡にめぐまれた地域で、平安期すでに石浜・橋場付近に「隅田の渡し」が置かれていたと推定される。また日慶寺・円通寺などに中世の信仰・交易・交通を知る上で欠かせない板碑がある。
文禄3年(1594)の千住大橋の架橋後、日光道中がここを通り、たいへんな賑わいをみせた。当時活躍した文人の歌碑、大名屋敷、小塚原刑場跡など江戸時代の史跡が多い。
明治維新後の我国の殖産興業政策は荒川区にも及び、南千住に官営の千住製絨所が設置された。今に残るレンガ塀に往時がしのばれる。

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問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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