私は「日暮里【にっぽり】」と申します。「日・暮・里」と書いて「にっぽり」と読みます。今何歳かと聞かれましても、もうとんと前のことで…。覚えておりますのは小田原の北条様の家臣遠山弥九郎【とうやまやくろう】様がこの辺を治めていたころでしょうか、『北条家所領役帳【ほうじょうけしょりょうやくちょう】』(永禄2年〈一五五九〉)という帳簿に私が「新堀【にっぽり】」と出ていますから、450歳くらいにはなっているのでしょうか。どうも、弥九郎様のお屋敷があって、新しく土塁【どるい】を築き堀をめぐらしたことで、こんな名前が付けられたとか(『新編武蔵風土記稿【しんぺんむさしふうどきこう】』)。
あっ、いえいえ室町時代の文安5年(一四四八)の「熊野神領豊嶋年貢目録【くまのじんりょうとしまねんぐもくろく】」に「につぽり妙円」ともでてきますので、―〈しみじみと〉私も、もう500歳を越えましたか(『熊野那智大社文書【くまのなちたいしゃもんじょ】』第一 米良【めら】文書一)。
長年生きていますと、辛いこともございます。先年少々ショックなことを耳にしました。中国からの留学生の言葉です。―「日暮という字は、太陽が沈むという意味を持つあまり縁起のよい字ではない。なぜそのような字を地名に使っているのか?」何しろ六千年の歴史のある、漢字の本家本元からこられた方の言葉ですから。中国ではそうなんでしょうね。そりゃ傷つきましたよ。日暮里といえば谷中に続く西日暮里三丁目の寺町、つまり私の“顔”ですが、ここらへんに私の名前の由来があるんじゃないかと思ってるんです。
私が生まれていないころの話になりますが、奈良時代の歴史を綴【つづ】った『続日本紀【しょくくにほんぎ】』という本なんか見てましてもね、「好【よ】き字を着【つ】けよ」(和銅6年〈七一二〉5月2日条、『風土記【ふどき】』の編集の命令)とあって、当時のお上は地名には良い意味の漢字をあてよ、なんて命令を出しているんですよ。ですから決して縁起が悪い字ではないと思うんですよ。あの日光の陽明門だって「日暮しの門」ていわれているじゃないですか。日の暮れるのも忘れて見とれるような美しい門という意味ですよ。
えっ、いつごろから「日暮里」の字をあてるようになったかですか?うーん記億をたどると、どうも江戸時代の中頃だったような気がします。最初は「あだな」みたいなもので、「日暮しの里」なんて呼ばれていました。自分で言うのも何ですが、私の“顔”であるところの―西日暮里三丁目は、季節ごとにおりおりの表情を持つといわれ、雪月花を楽しむ・観光見物人が押し寄せて来て、私も思わず頬を赤らめたものでした。諏訪台の西側に妙隆寺(西日暮里三丁目一〇八〇番地付近、近代に修性院と合併)というお寺さんがありましてね、寛延元年(一七四八)ごろ、御住職が境内にサクラやツツジを植え、見事な庭を作り上げました。元祖“花見寺”です。ここが評判となり、近所のお寺さんも競って庭をしつらえるようになりましてね、日暮里の山が一つの庭園のようでしたよ。文学(漢詩)好きでグルメの大工柏木如亭【かしわぎじょてい】さんとか、お役人でありながら、狂歌・洒落本などに手を染めている太田南畝【おおたなんぽ】さんなんかが、度々足を運んでくだすって、ほうぼうで宣伝してくれたもんです。そのころでしょう。「にっぽり」の音に「日・暮・里」をあて、だれともなく「日暮しの里」と呼ぶようになったのは。
正式にはどのような字が正しいかって?私にも、よくわかりませんよ。江戸時代の公とされる文書や記録では「新堀」の字を使っていますがね。もっとも、私の頭から爪先まで全身をさしている時に限られるようでしたね。
上野戦争の時は、山続きだったこともあって官軍に私も相当痛め付けられました。明治時代を迎え、どうやら正式な「新堀村」という名前を頂戴して落ち着いたなァと思ったら、また騒ぎが始まった。何でもそのころ使われた地方行政区画の大区小区制【だいくしょうくせい】(舌が回らんよー)とやらのうち、第五大区十四小区というところにいれられたんだが、江戸川の新堀さんもここに入っていて、郵便の誤配続き。あちらは「しんぼり」だっていうのにね。そんなこんなで、明治10年(一八七七)内務省というお役所にお願いして「日暮里」にかえてもらったわけ。
まあ、結局、けっこう「日暮里」の名前が気に入っているということですね。それにしても、このあたりの景色、紅顔の美少年だったあのころに戻らないものかねぇ。
花の比けうも【ころ今日も】
あすかもあさっても
あかぬながめに日ぐらしの里
(出典元:荒川ふるさと文化館だより第6号より)
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