荒川ゆうネットアーカイブ
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観光ルート(山谷通り(コツ通り)コース)
荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
内容は、掲載当時のものとなります。

観光ルート

このページでは、荒川区のお薦めの散策コースを紹介しています。

情報提供協力:荒川ふるさと文化館
荒川ふるさと文化館常設展示「あらかわ史跡・文化財データけんさく」「小塚原村絵図装置」より
山谷通り(コツ通り)コース
JR南千住駅の西に位置し、日光街道へと続く「山谷通り」は、通称「コツ通り」とも呼ばれ、かつては両側に畑が広がり、富士山を望むこともできたというが、現在は商店が立ち並んでいる。「コツ」の名の由来は、『小塚原(こつかっぱら)を略した』『小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(こつ)と付けられた』などの説がある。江戸時代のお仕置き場であったこの地には、刑死者の菩提を弔うため、寛文年間、両国回向院の子院別寮で、刑死者や牢死者を埋葬する小塚原回向院が創建された。安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変などで犠牲となった、幕末維新期の志士や浪士の墓も多く、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田源次郎らが葬られており、今も香華を手向ける人が絶えない。幕末ファンなら、一度は訪れてみたい場所といえよう。また、この通りには、コロンビアトップ、ライトほか、錚々たる芸人を世に送り出した演芸場「栗本亭」(昭和31〜34年)があった。
山谷通り(コツ通り)コース地図
延命寺 コラム泪橋
徒歩1分  
回向院 彰義隊戦士
旧上野の黒門
徒歩6分
日慶寺  
徒歩2分  
素盞雄神社  
徒歩3分  
熊野神社  
徒歩1分  
千住大橋 コラム千住宿
小塚原刑場跡(小塚原の首切地蔵)・延命寺 荒川区南千住2−34-5
小塚原刑場跡(小塚原の首切地蔵)・延命寺 江戸の仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
小塚原の刑場は、間口60間余(約108m)、奥行30間余(約54m)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔、斬罪、獄門などが執行された。
首切地蔵(区指定文化財)は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に建てられたものである。

地図
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回向院 荒川区南千住5−33−13
回向院 回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観【ていよぎかん】が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
安政の大獄により刑死した橋本佐内・吉田松陰・頼三樹三郎【らいみきさぶろう】ら多くの志士たちが葬られている。
明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に、『解体新書【かいたいしんしょ】』を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正11年(1922)に観臓記念碑が建立された。

地図
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彰義隊戦士
彰義隊戦士 慶応4年(1868)5月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏麿【ぶつま】和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。これが縁となって、明治40年(1907)、寛永寺の黒門(区指定文化財)が円通寺に移された。
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旧上野の黒門
旧上野の黒門 もとは上野の寛永寺内にあった八門の一つがこの黒門で、明治40年(1903)円通寺境内に移された。寛永寺は江戸時代に再三にわたる火災にあい、黒門も何度か焼失しては再建されている。現在残る黒門は天保年間(1830〜1843)頃のものといわれる。
慶応4年(1868)寛永寺に集結した旧幕臣の彰義隊が、新政府軍と戦った上野戦争では、この黒門の前で最も激しい戦闘が繰り広げられた。その様子は今も黒門に残る多数の弾痕にしのばれる。損傷が著しいため、昭和60年度に修復工事が行われた。
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日慶寺 南千住7-15-4
日慶寺 天文(1532〜1555)の頃、日慶という比丘尼【びくに】が谷中に日慶寺を草創した。その後、三代将軍家光に仕えた円心院日相尼【にっそうに】が、宝永元年(1704)、千住南字砂尾【あざすなお】と呼ばれたこの土地に、当時荒廃していた谷中日慶寺の遺号を引継ぎ、当寺を開創。そのため円心山日慶寺と号する。現存する鬼子母神像は、運慶【うんけい】作・家光感得【かんとく】といわれ、五代将軍綱吉から、開山日相尼へ下賜されたものと伝える。また、区内最古の正応2年(1289)銘板碑を所蔵する。
元文元年(1736)、九代将軍家重が三河島筋【みかわしますじ】で鷹狩を行った際には、当寺が御膳所にあてられている。

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素盞雄神社 荒川区南千住6−60−1
素盞雄神社 小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「おてんのうさま」とも呼ばれる。石を神として崇拝する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、荊石【けいせき】が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命【すさのおのみこと】・事代主命【ことしろぬしのみこと】)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光【ずいこう】石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。宝暦年間(1751〜1764)頃まで行われていたという千住大橋綱曳【つなひき】は、その年の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保9年)にその雄壮な様が描かれている。
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熊野神社 荒川区南千住6−70
熊野神社 創建は永承5年(1050)、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を隅田川にかける時、伊奈備前守忠次【いなびぜんのかみただつぐ】は当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行った。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟がゆきかい、秩父・川越からの物資の集散地としてにぎわった。

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千住大橋
千住大橋 千住大橋は、徳川家康の関東入国後の文禄3年(1594)に、伊奈備前守忠次【いなびぜんのかみただつぐ】の奉行により隅田川に架けられた最初の橋であった。当初は単に大橋と呼ばれ、万治2年(1659)に両国橋が架設されてから千住大橋と呼ばれるようになった。日光道中(奥州道中)の江戸への出入口の橋となり、東北地方や北関東地方の大名がこの橋を渡るようになった。
文禄3年の架橋の際に、伊達正宗が資材を調達し、水腐れに最も強いという犬槇【いぬまき】が使われたと伝えられており、明治18年(1885)の大洪水までその橋脚が流されることはなかった。その後、昭和2年(1927)の改築で橋脚のない網橋となった。
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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