荒川ゆうネットアーカイブ
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トップページ > 特集 > 荒川区の著名人「江戸紙切り 桃川 忠」
荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
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荒川区の著名人
独自の考案と工夫で進化中の「紙切り芸」
江戸紙切り 桃川 忠 公演風景 インタビュー風景 作品  
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桃川 忠(ももかわ ちゅう)さんプロフィール


【経歴】
昭和7(1932)年、東京北区生まれ。幼少期に絵本の動物を切り抜くことに興味をもったのが“紙切り”のはじめ、小学生の頃には新聞紙を使い、様々な動物やSL、戦艦大和などを切り出しては、友人たちの人気を博す。以後、趣味として紙切りの技術を磨き、独自の紙工術を考案する。昭和56(1981)年、49歳の時に周囲の勧めにより、プロとしてデビュー。以来20年余にわたり、寄席やお座敷、各種のイベントなどで紙切り芸を披露。日本独得の即興パフォーマンスとして海外での評価は高く、アメリカ、スペイン、中国、東南アジア諸国などで20数回におよぶ海外公演も行っている。

インタヴューア 江坂裕子

質問:荒川区との関わりなどについてお聞かせください。
インタビュー風景
魚釣りやトンボ取りにあけくれた子供時代
 生まれは北区の滝野川ですので、荒川区とはすぐ目と鼻の先です。子供の頃は、魚釣りやトンボ取りが大好きで、よく荒川や、隅田川の方まで遊びに来ていました。荒川の土手まで出るのに、小学生の足で2時間程かかりますが、毎日のことですので親に都電の電車賃をねだるわけにもいかず、魚釣りの網やトンボ取りの竿をかかえて飛び回っていました。荒川や隅田川まで行かなくても、尾久のあたりには小さな堀や小川があちこちにあり、遊ぶには不自由しない原っぱも沢山ありました。

父の仕事場は尾久の検車区
 父は鉄道員で尾久駅のそばにある検車区に勤めていました。幼少の頃から汽車を見につれてきてもらうなど、尾久周辺は馴染みのある場所で、小学生になると一人でも行けるようになりました。尾久の商店街の雰囲気は今も当時とあまり変わっていません。検車区もJRになりましたが今でも残っていますし、都内でも昔の風情がわずかに残っている貴重な地域ではないでしょうか。

質問:初めて紙切りをされたのが3歳の頃と伺いましたが、どのようなきっかけでしたか。
インタビュー風景
絵本の切り抜き
 今でもはっきりと脳裏に焼きついているのは、3歳の頃の出来事です。動物の絵本を買ってもらい、嬉しくて毎日飽きずに眺めていましたが、そのうち眺めているだけでは物足りなくなり、なんとかして本の中からライオンを引っ張り出せないかと思ったのです。そこで母の和裁用のはさみを持ち出して、絵本のライオンを一生懸切り抜きました。紙は硬く、小さな子供のことで、そう力がありません。すこしずつ切り抜き、ライオンを絵本から切り出すには1〜2ヶ月かかったと思います。出来上がった時は嬉しく、褒めてもらえるものだとばかり思い、得意顔で父に言ったところ「高い本なのに、何てことするんだ!」と、大変叱られました。当時は、まだ絵本は高価なもので、年に1,2冊しか買ってもらえなかったものです。しかしながら、動物を切り抜くのが面白くて止められず、母が近所から借りてきてくれた本でさえお構いなしに切り抜いては、叱られていたのを記憶しています。

友人と物々交換
 小学校に入学する頃には絵本の切り抜きは卒業し、新聞紙を使って、犬、猫、ライオン、象など、ありとあらゆる動物や昆虫、汽車や船などを切っていました。戦時下で物の不足していた時代で、子供の遊びに使える紙は新聞紙ぐらいでした。低学年までは、校内でみんなの感嘆と注目を集め、リクエストに応じていろいろ作っては、鉛筆やノートと交換していました。ただこの紙切りは高学年になるとみんなに飽きられてしまったので、その後は家で、ひたすら隠れてコツコツと熱中するのみとなりました。
 勉強の方は全くダメでしたが、図画工作だけはばつぐんの成績で、上野の美術館に絵を展示されたこともあったほどです。

質問:江戸紙切りのパフォーマンスをプロとしてはじめられたいきさつは?
インタビュー風景
浪曲師になりたかった18の頃
 演芸や演芸場には興味がなかったので、ほとんど無縁の生活でしたが、ラジオが一般的な娯楽の時代に育ち、ラジオから流れる浪曲が好きで、若い頃は一度“浪曲師”になりたいと思ったことがありました。ところが、父は真面目一徹の鉄道員、母方は親戚に桃川如燕という講談師が居た為、多少、芸人の世界を知っていたので「まともな仕事じゃあないし、第一食べていけない、とんでもない!」と猛反対され、あっさり断念しました。その私が50歳近くなり、芸人になろうとは、夢にも思っていませんでした。

町屋で鉄工所を経営
 戦後間もない混乱期に学校を卒業し、トラックの運転手など、いろいろな仕事を転々としました。見かけによらず短気で喧嘩っ早い性格なので勤め人には向かず、結婚後、昭和39(1964)年オリンピックの年に独立して現在の荒川町屋の地で鉄工所をはじめました。紙切りと同様、コツコツと自分なりのアイディアで考案しながらモノを造る事が得意で、他にはないディスプレイ用のショーケースなどを製造販売していました。

遅咲きのプロデビュー
 鉄工所の仕事のかたわらに、荒川区の釣りの会に入っていたので、仲間うちの会合などで時々、余興として紙切りを披露していました。その中に偶然にも芸能関係の仕事をしている人がいて「プロとして十分やっていける」と勧められ、昭和56年5月5日、浦和の伊勢丹オープンのイベントで初デビュー。49歳の時でしたからプロとしては遅いスタートで、その後10年ほどは鉄工所の仕事と二足のわらじを履いていました。
 幼い頃からやってきているので、紙切りの技術には自信がありましたが、おしゃべりは全くの素人ですから、舞台の上ではいろいろな失敗もありました。

芸術と職人の狭間で
 良く紙切りを「芸術か技か」と問われますが、芸術性の追求だけでは面白みが無くなるし、技術があるから職人かというと、それもちょっと違うと思います。時間をかけることによりそれなりの精巧な芸術作品も出来ますが、紙切りは演芸またはパフォーマンスと呼ばれるのが一番合っているのではないでしょうか。好きでずっとやってきたことですが、お客様に感動を与え、楽しんで頂けることは、私自身の楽しみ喜びです。
 舞台は約15分から30分間ですから、切るスピードと見せ方の工夫が大切で、様々なリクエストに応えて話しを交えながら瞬時に形にする技を、舞台経験を積み重ねる中で身につけ、更に芸として磨いて来ました。リクエストされた物を知らないとイメージ出来ませんので、日本古来の縁起物や歌舞伎十八番など古いものから、アニメのキャラクターからやヨン様などの最新情報まで、題材になるものには常に気を配っています。また面白がって水、空気、音などをリクエストするお客様もありますが、形で表現するのはいささか大変な作業です。

寄席の色物
 紙切りは、江戸時代に、宴席の余興に謡や音曲に合わせて、様々な形を切り抜く芸としてはじまったようです。寄席の出し物としては明治6年に、喜楽亭おもちゃという人が高座で行いました。落語や漫才などにくらべ、色物の中でも地味な芸ですし、文献にもあまり残っていないようです。明治以降も、3〜4人は細々とやってきたようですが、作品としては全く残っていません。戦後は初代の林家正楽氏がやっていましたが、現在では芸団協に所属しているのは5人のみです。世界でたった5人しか紙切りが出来る人がいないということなのです。

質問:海外公演が多いと伺いましたが、海外での観客の反応はいかがでしたか。エピソードなどがありましたらお聞かせください。
公演風景
ペーパー・カッティング・クラフト
 海外では、ペーパー・カッティング・クラフトと呼ばれて驚くほど珍重されます。マジックや曲芸の多くは海外のエンターテイメントでもありますが、紙切りという演芸は「初めて目にする」らしく、大変熱心に観て下さいます。テレビカメラがずらりと並らぶと、緊張しますが、訪問国の事を勉強して、その国の代表的な建物や人物を即興で切り抜くと、非常に喜んでもらえます。中国では日中友好の白い鳩を、トルコでは当時のケマル大統領の横顔を切り抜いた事もあります。出来た作品を欲しいとお客様が押し寄せ、もみくちゃになったこともありました。本当にありがたく嬉しいことです。

質問:生活上あるいはお仕事の上での信条はどのようなことでしょうか。
はさみと切り絵
自分独自のモノづくり
 自ら考え、いろいろと試行錯誤し、オリジナルを追求するということが信条でしょうか。人の真似をするのは嫌い、人がやっていないことを考え、作り出していくことに限りない面白さと楽しさを感じます。紙切りで言えば、2枚重ね、3枚重ねをして一度に色の違う何枚かの作品を作り出すのも、私の考案です。8枚位までやってみましたが、時間と紙のズレなどの関係もあり、舞台では3枚までにしています。
 紙は、厚みや硬さなど扱いやすく切りやすい質があるので凝って探し求めます。物置には30年間舞台に毎日立ち続けても余る量の紙を溜め込んでいます。また、特殊なアクリル板を使って平面の紙を立体的に見せる工夫なども試みています。猛訓練をして切り抜いたカブトムシを磁石で動かして見せたこともありますが、紙は種も仕掛けもないから良いのだという事で、あまり受け入られませんでした。切り抜くモチーフも、見せ方なども新鮮さが求められる世界、私の紙切りパフォーマンスも常に進化中です。


質問:今後の目標はどのようなことでしょうか。
インタビュー風景
ストーリーを持たせた影絵劇
 歌舞伎十八番や侍などは得意でよく切り抜きますが、侍でも数十種類の形が違うものを作ることが出来ます。人物やしぐさの様々なシルエットが可能なので、即興で登場人物や背景を作りつつ、ナレーションをつけてストーリーのある影絵劇が出来るのではと思っています。現在は切り抜くまでがパフォーマンスですが、切り抜いた作品を見せて、お客様に差し上げるだけではなく、作品自体を生かした舞台を今後作っていきたいと考えています。照明の工夫など多少大掛かりになりますが、シルエット劇のように出来ないかと現在模索中です。

質問:最後に、荒川区の魅力、荒川区に対する思いなどについてひと言お願いいたします。
インタビュー風景
荒川の自然を大切に
 子供の頃の荒川区は、とにかく自然の宝庫でした。夏の夕暮れ時には、飛鳥山から荒川にむけてトンボの群集が飛んで来ます。とりもちのついた竿を持ってトンボを追いかけ何十匹と捕まえて家に持って帰り蚊帳の中に放って遊んでいました。アキアカネやギンヤンマなど、種類の違うトンボの姿を実際に見て、触れて、今でも頭の中に形が焼きついています。尾久の原公園、隅田川沿い、荒川の土手などに時折出かけると、トンボを見かけます。荒川区に残っている自然を発見して、懐かしく嬉しい気持ちになります。荒川の自然をこれからも皆で大切にしていきたいです。

   
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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