荒川ゆうネットアーカイブ
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トップページ > 特集 > 荒川区の著名人「浪曲師 イエス 玉川」
荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
内容は、掲載当時のものとなります。
荒川区の著名人
下積み時代を応援してくれた日暮里の人々
イラスト 浪曲 イエス氏 浪曲師 イエス 玉川
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イエス 玉川(いえす たまがわ)さんプロフィール


【経歴】
広島県生まれ。ラジオから流れる浪曲を聞いて育ち、浪曲をまねては大人を喜ばすのが大好きな茶目っ気のある少年時代を送る。中学校時代から兄の影響で陸上選手の道を志し、陸上の名門である広島県立工業高校に進学、3ヶ月目に肩の脱臼で選手生活を断念。その後、子供の頃から憧れだったエンターテイメントの道に方向転換する為に15歳で高校を退学、単身上京し玉川良一師の門をたたく。師の紹介で、浪曲師三代目玉川勝太郎師の内弟子となる。4年間の内弟子修業後独立、下積み時代を経て東宝名人会やテレビのバラエティー番組に出演。神父の衣装で浪曲を唸る独自のスタイルを生み出し、浪曲をベースにエンターテイナとして活躍中

インタヴューア 江坂裕子

荒川区のご出身ですが、子供の頃の思い出などをお聞かせ下さい。

幼少時のイエスさん(左)
幼少時のイエスさん(左)
とお兄さん

ラジオから流れる浪曲に魅せられて
  私は幼い頃から大変に浪曲が好きな父の傍らで、ラジオから流れるのを聞いて育ちました。独特の節まわしとテンポの良い話が、子供心にも面白くて好きでなりませんでした。小学生になると、すぐに節を憶えては、真似して唸っていると友達や近所の人々等が喜んで聞いてくれるので、ますます嬉しくなり次々と新しいものを覚えては、披露していました。中でも二代目広沢虎造氏の「森の石松」等が得意でした。

陸上選手を志した中学時代
 6歳年上の兄が、中学校の放送陸上の全国大会で2位になるほど陸上に一生懸命打ち込んでいましたので、その影響を受けて、中学校入学後は陸上競技を始めました。陸上部監督の松岡国雄先生の人柄に惹かれ、県内の陸上名門校である広島県立工業高校に進学しました。入学前から合宿などに参加させてもらい、夜になると先生や先輩たちの前で得意の浪曲を披露していました。ところが、入学して3ヶ月目にひどく肩を脱臼し「これ以上陸上を続けるのは無理」と医者に言われてしまいました。

芸能界に方向転換
 陸上がしたくて下宿生活をしながら進んだ高校でしたが、陸上を断念せざるを得ないのならば、意味がなくなってしまいました。「子供の頃から憧れていた芸人の世界に進みたい」と思い立ち、たったひとりで上京し、雑誌で調べた住所をたよりに「ぜひ弟子にして欲しい」と玉川良一師の門をたたきました。テレビ番組「てなもんや三度笠」やキャベジンのコマーシャルで大人気でしたので、門前払いは覚悟の上でしたが、陸上を通して身につけた「礼儀正しさ」が幸いし、家に上げて頂き話を聞いてくださいました。浪曲を一節唸らせていただいたところ「声も良いし、浪曲の基礎をしっかり身につけるのが良いだろう」と、本家筋にあたる三代目玉川勝太郎師匠を紹介して下さったのです。


4年間の内弟子修業を経て独立
 高校を中退し芸の道に飛び込んだ事で、親からは勘当されましたが、陸上部の松岡監督が親代わりになり応援して下さいました。文京区根津の師匠宅に住み込み、玉川勝美の名を頂いて内弟子修業が始まりましたが、当時若者の人気はグループサウンズに移り、浪曲界への弟子志望はごく少なくなっていて、師匠宅では私ひとりでした。大きな家の掃除と、病気で寝たきりの先代(二代目)のお世話が日常の主な仕事でした。辛かったことと言えば、舞台に上がる回数が非常に少なかったことです。芸人は“舞台の上が勝負”ですから、舞台に立ってさえいれば、諸々の事は忘れていられます。師匠が弟子の頃はラジオの娯楽番組と言えば、8割がたは浪曲という全盛期でしたので、弟子でさえ月に100回以上も舞台を勤めることが出来たそうです。.私の場合は、4年間で僅か100回程度でした。時代の流れとともに、無数にあった演芸場や、定席の小屋がテレビなどの影響で姿を消したのが原因と言えます。

質問:19歳で独立し、荒川区にお住まいになりますが、当時の様子は如何でしたか。
西日暮里のガード横
 4年間の内弟子修業を終えた私の独立の第一歩は、西日暮里のガード横、家賃6000円という4畳一間のアパートからでした。まだ十分に“飯が食える”状態ではありませんでしたが、ひとりになった開放感や気楽さもあり、とても充実していて楽しかったのを憶えています。近所の銭湯によく行き、そこで出会った人や商店街の人々にも「浪曲師の卵だってね。」と、応援してもらいました。

芸人を温かく包む街
 八百屋のおばさんは「近所には三波春夫さん(歌謡浪曲)も住んで居たんだよ。ここで頑張った芸人さんはみんな必ず出世するから、あんたも大丈夫!」といって励ましてくれました。おでん屋でのアルバイトは、食事と残り物のお土産つきで、3食おでんという生活で食費を浮かせたこともあります。浪曲好きの靴屋のおじさんは、舞台があると聞きに駆け付けてくれたりと、街全体が温かい雰囲気で、とても住みやすい場所でしたね。

質問:神父姿で浪曲・漫談という独自のスタイルを生み出したのは、どのようないきさつからですか。
 
衣装を着たイエスさん
前座修業とキャバレー巡り
 独立しはじめは、著名な浪曲師の前座で地方公演に出かけたり、全国のキャバレー巡りをしていました。キャバレーでは、浪曲に、漫談や歌謡曲等、なんでも折りまぜた舞台を行っていました。しかし、お酒が入って酔ったお客さんの中ですので、面白くなかったり、漫談でちょっと辛らつなネタを言おうものなら、客席から、ビール瓶やコップが飛んでくるという厳しい現場でした。そこで思いついたのが、私自身を「第三者」に仕立ててしまうことでした。「天の声、イエス様がそう仰っています」を落ちにすると、どのようなネタであっても素直に聞いてもらえます。ならば芸名も衣装にちなんでイエス玉川が良いのではないかと思い、現在のスタイルと名前にしました。

目標は浪曲エンターティナ
 正調派の浪曲の舞台は、紋付き袴で浅草の木馬館に出演し、錦糸町の楽天地寄席は、有名になる前のケーシー高峰氏、田辺一鶴氏、佐々木つとむ氏等とご一緒していました。名人ばかりが出演する東宝名人会に出演が決まった時は正に“ホップ、ステップ、ジャンプ”の心境で、とても嬉しかったです。その後、テレビのバラエティ番組にも出演するようになりました。本来、目標は玉川良一師のようなエンターティナでしたから、浪曲を基礎にしたエンターテイメントとして、はっきりと自分の芸が見えた感じでした。

独演会で本領発揮
 昭和54(1979)年に、浪曲をベースにして漫談・歌謡曲をとりまぜた独演会をスタートしました。
 一方、浪曲の方では翌55年に歌舞伎座で真打披露をさせて頂きました。カタカナ名の芸人としては歌舞伎座出演はじめてのことだったと聞いています。また平成8(1996)年には、国立演芸場で芸能生活25周年記念独演会を開催する等、浪曲ファンの方々のおかげでこの道30年を超えることが出来ました。

質問:お仕事あるいは生活の上での信条とは、どのようなことでしょうか。
インタビュー風景
感謝の気持ちを大切に
 落語も芝居も同様に、舞台は一回一回全部違います。その日の天候、自身の体調や気分、お客様の状況等、プロゴルファー・青木功氏の言葉の通り同じ条件は二度とありません。
 同じネタをしているつもりでも、客席から戻ってくる反応は千差万別で、その反応に応じて演ずる方も変わって行きます。そこにのみ生まれる、この独得の緊張感がなんとも言えません。“芸人は舞台に立たなければ”と言う信念でこれまでやって来ましたし、舞台に立てることの嬉しさは、何にも代えがたいものです。私自身は、キリスト教とは無関係ですが、何事にも感謝する気持ちを大切にしてきました。
 

質問:お今後の目標はどのようなことでしょうか。
インタビュー風景
親子や孫と一緒に浪曲を
 浪曲で語られる数ある話の中には、日本人が本来大切にしてきた義理や人情、粋でいなせな心意気、昨今忘れ去られてしまっている道徳的な教えや人間教育等が沢山盛り込まれています。浪曲・漫談を通して、その根底に脈々と流れる日本人の心情を伝えて行きたいと思います。浪曲を聞く機会や場所が少ないのが残念ですが、出来れば“生”で聞いてその精神に触れていただきたいです。浪曲というと、どうしても年配のファンが多いので、今後の活動としては「親子で浪曲を聞く会」や「孫と一緒に浪曲を楽しむ会」などを若い人や子供たちにも馴染んでもらえる企画をしたいと思います。そのために、老若男女問わず、誰でもが笑えるような楽しく面白い舞台をいつも考えています。

質問:最後に、荒川区に対する思いなどをひと言お願いいたします。
荒川との繋がりをいつまでも
 荒川区は東京で独立した私のスタートの場所であり、第2の故郷です。変わらぬ街の空気や温かい人情味は、いつも私を励ましてくれます。昨今は新しいものや便利なものがもてはやされる時勢ですが、情けも含め古き良きものは大切に守り継いで欲しいです。
 現在の住まいは足立区の舎人、副業で始めたPUB「玉ンない」が大塚、事務所が学習院下にありますが、舎人は日暮里からのモノレール開通予定地であり、大塚や学習院下は都電荒川線の停車駅というように、どこかで荒川と繋がっています。いつまでもこの繋がりを大事にしたいと思っていますし、荒川がより素晴らしい地域になることを心より願っています。


   
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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