荒川ゆうネットアーカイブ
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トップページ > 特集 > 荒川区の著名人「俳優、画家 片岡鶴太郎」
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荒川区の著名人
いつか“故郷・荒川区”で個展を開催したい
作品 作業風景 作品 俳優、画家 片岡鶴太郎
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片岡 鶴太郎(かたおか つるたろう)さんプロフィール


【経歴】
昭和29(1954)年、荒川区西日暮里生まれ。高等学校卒業後、声帯模写の片岡鶴八師匠のもとに弟子入り、3年間に及ぶ修行の後ひとり立ちし、浅草演芸場、東宝名人会に出演。
テレビのバラエティ番組「おれたちひょうきん族(昭和56年〜64年)」出演で一躍人気者になり、その後ドラマに進出。昭和63年には松竹映画「異人たちとの夏(大林宣彦監督)」に初出演。日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、ブルーリボン助演男優賞など多くの賞を受賞し、役者としての地位を確立する。40歳を前に独学で始めた墨彩画でも独自の世界を創り上げ、平成7(1995)年に初の個展を開催、以後、毎年全国各地で個展を行うなど、旺盛な創作活動を展開している。

インタヴューア 江坂裕子

荒川区のご出身ですが、子供の頃の思い出などをお聞かせ下さい。
インタビュー風景
谷中の墓地が自然と触れ合う遊び場
  西日暮里で生まれ、地元の真土小学校(現・ひぐらし小学校)に通っていました。小学生の頃の思い出といえば、近所の子供たちで集まり、狭い路地や裏通りで日がな一日遊びに明け暮れていたことです。当時、日暮里界隈は家屋が密集していて、空き地が無く、自然があまり残っていませんでしたので、日曜になると広い遊び場を求めて谷中まで出かけて行きました。
 谷中の墓地は野球が出来たこともあり、子供たちの格好の遊び場でした。墓地内の草むらの多い所では、バッタやトンボなどの昆虫採集に熱をあげていたのを記憶しています。

日暮里の駄菓子問屋街
 休日は谷中に出かける途中にある、日暮里駅前の駄菓子問屋街に寄るのがとても楽しみでした。1個5円のきなこをまぶしたくじ付きのあんこ玉が妙に美味しく、くじに当たると大きなあんこ玉がもらえる楽しみもありました。ある時、小遣いを全部つぎこんみ、丸ごとひと箱買ってきたことがありました。ひとつひとつ食べながら丹念に調べたりしましたが、当たりとはずれの並びは全くアットランダムで、残念ながらその後の“傾向と対策”にはなりませんでした。こんな風に、今思い出しても、わくわくするような楽しい事の多い子供時代でした。

質問:芸能界に入られたいきさつについて簡単にお聞かせください。
父に連れられ寄席通い
 父がたいへん寄席の好きな人でしたので、幼い頃からよく上野や浅草の寄席に連れて行ってもらいました。わけも分からず聞いていましたが、舞台の賑やかで楽しい雰囲気は大好きでした。月に何度も通ううちに、自然と話を覚え、家や学校で見よう見真似で披露するようになりました。これが“受ける”とまた嬉しくて、得意になってやっていたものです。小学校5年の時にテレビの素人参加番組「しろうと寄席」に出演し、動物のものまねをしたところ審査員に大変褒められました。この頃から“芸人”に憧れ、将来の仕事にしたいと思うようになっていきました。

荒川少年少女合唱隊の一期生
 荒川区で子供の合唱隊を作る話があり、音楽の先生に勧められてオーディションを受けたところ合格し、現在も存続している荒川少年少女合唱隊の一期生となりました。入隊の動機は、歌がうまいとか、音楽の成績が良いからではなく「将来芸能界に入りたい」という心づもりがあり、少しでもそれに近い活動をしたいという気持ちからです。土、日曜日は練習やコンサートに嬉々として通っていました。

高校卒業後、鶴八師匠に弟子入り
 その後、東日暮里にある東京都立竹台高等学校に入学し、演劇部で芝居に取り組みました。文化祭などでは別役実氏の戯曲など、かなりハイレベルな芝居に挑戦していました。卒業する頃には、役者への夢もありましたが、アルバイトをしながら役者修業をしていくのも生温く感じられ、何か自分をアピールできる芸を早く身につけたいと思っていました。そこで声帯模写(ものまね)の片岡鶴八師匠に手紙を書いて押しかけ、当時得意としていたものまねを師匠の前で披露したところ弟子入りを許されました。芝居は大勢で創り上げる共同作業で、役者は役を与えられるまで常に「待ち」の姿勢ですが、ものまねは一人芸、自分でネタを作り、自分から積極的にしかけていけるという面白さが魅力でした。

質問:その後、バラエティ番組からドラマ、映画へと進出、芸能活動からプロボクシングのライセンス取得までの経緯とご心境は?
  マウイマラソン
「おれたちひょうきん族」でブレイク
 鶴八師匠のもとで、寄席や演芸場の芸を毎日のように見て、ネタを作っては稽古をつけてもらう修業が3年間続きました。その後2年ほどコントグループに所属して、実践の舞台修業後、再び一人の芸を磨くために四国の道後温泉の演芸場に行き半年ほど修業しました。「どうしたら面白いものが出来るか、売れるためにはどうしたら良いか」を、いつも考え続けていました。22歳の時東京に戻り、松竹演芸場、東宝名人会のオーディションを受け、寄席に出演することが出来ました。この頃からテレビの仕事も次第にくるようになり「おれたちひょうきん族」出演は26歳頃のことです。ビートたけし氏、明石家さんま氏など、芸達者な方たちの中で揉まれ、育てて頂きました。

お笑いから俳優へ
 本格的なテレビドラマ出演は昭和61年の「男女七人夏物語」です。ひょうきん族で一緒だった明石家さんま氏と共演し、お笑いのキャラクターを一変させシリアスな演技が評価されるきっかけのドラマでした。その後、昭和63年には、アカデミー賞助演男優賞などを頂いた映画「異人たちとの夏」にも出演、俳優として順調に充実した仕事が出来るようになりました。

プロボクシングに挑戦
 プロボクシングのライセンスを取得したのは、役者として仕事が充実してきた時期でもある、33歳の時です。「年齢的にも今しかない」と、むしょうにボクシングがやりたかったことと「名前が売れ、仕事も入るようになったが、これで自分が満足し、甘んじてしまったら半端な芸人で終わってしまう。」という思いがありました。精神的、肉体的にも鍛え直し、人前に立つ自信となるものが欲しかったのかもしれません。

質問:画家としての創作活動についてお聞かせ下さい。
練習風景
独学で始めた墨彩画
 30代の後半から40代初めにかけて、それまでやってきたことに決別するような人生の潮、流れがあった気がします。10年近く続いたドラマシリーズ「季節はずれの海岸物語」が終わり、一緒にやってきたボクシングの鬼塚選手があっけなく世界タイトルを手放して引退したりと、先行きへの不安、無常感や物悲しさを感じる瞬間がありました。年齢とともに心の有様が変わり、自分の生き方を問いただす時期だったのでしょう。そんな折り、夕陽、あるいは花や月をみて感じる胸のきゅーんとせつなくなる感情や、ことばにならない抽象的なポエジーの世界を何かで表現してみたいと思い、文房具屋で墨と硯、筆を買って絵を描き始めたのです。全くの独学というか自己流です。それがテレビのトーク番組で紹介され、絵をご覧になった日本絵手紙協会の小池邦夫先生からお手紙を頂き、以後小池先生とのご縁が生まれ、紙や筆のことなどいろいろご教授頂きました。
 
練習風景 個展開催と美術館開設
 絵は「素直に感じたままを表現する」手段として、非常に魅せられる世界です。また、やればやるほど奥が深く、描きたい題材がどんどん広がっていきます。画題は子供の頃虫取りに熱中したせいか、自然への憧れがとても強いですね。幸い認めてくださる方たちがいらっしゃって、平成7(1995)年、40歳の年に初の個展を開催し、以後毎年のように行っています。また平成10年には草津に「片岡鶴太郎美術館」を開設し、現在は工芸、陶芸へと創作を広げながら活動を続けています。興味のある方は、是非美術館や工芸館に足をお運び下さい。
草津・片岡鶴太郎美術館 http://kusatsuhotel.com/tsuru/ 
山中・片岡鶴太郎工芸館 http://www.shozando.co.jp/
この他、佐賀県伊万里に「伊万里片岡鶴太郎工芸館(お問合せ先:TEL 0955-22-3080)」、福島県飯坂に「片岡鶴太郎美術庭園(お問合せ先:TEL 024-542-0555)」が開設されています。

質問:お仕事あるいは生活の上での信条とは、どのようなことでしょうか。
インタビュー風景
こころの欲するままに
 とくに信条としていることはないのですが、あえて言えば“流れのままに”ですね。これまで好きなことを自然のままにやってきたという感はあります。不器用者ですから、心の欲するもの、好きなことしかできないし、やりはじめたら自分自身が納得するまでやらないと気が済まない性分です。

質問:現在とくに力を注いでいらっしゃる活動や、今後の抱負などは?
俳優と創作活動
 俳優の仕事としては、平成13年から始まったテレビ時代劇「八丁堀の七人(テレビ朝日)」シリーズが好評で、2005年1月から放映で現在は第6シリーズの撮影に入っています。日曜の夜に京都入りし、月曜から木曜まで早朝からの撮影です。週末東京に戻り、こちらでの仕事をこなして、また京都に向うという生活が3ヶ月ほど続いています。絵を描く時間が週末の一日ぐらいしか取れないのがちょっと残念ですが、非常に充実した毎日です。与えられる役の前に、まず自分の生き方がしっかりしていることが先決です。その姿勢が評価されて見合う役が与えられ、またその足跡が俳優という仕事を支え、新しい展開を生みます。ひたむきに真摯に生き、じっくりと良い仕事をして行きたいと思っています。

お風呂と寝酒でリラックス
 多忙な生活ですが、週末の一日は絵を描いた後、ゆっくりと風呂につかり寝酒を飲む時がほっとするひと時です。振り返ってみれば、20代ではお笑い、30代は俳優とボクシング、40代では絵とそれぞれの年代で、心のままに生きてきて、素晴らしい出会いにも恵まれました。今年50歳、これからの50代、60代にはどんな未来があるのか、私自身が一番楽しみにしています。これまでの生きてきた過程を綴った「自伝・描きかけの自画像」(講談社刊) が2003年刊行されています。興味のある方はご一読ください。

質問:最後に、片岡さんにとっての荒川区、その良さや魅力などについてひと言お願いします。
インタビュー風景荒川区役所に飾られている作品
「鷹図」
人間の核を形成した温かい街
 両親は今も変わらず荒川区在住ですが、私自身は現在の荒川区についてあまりわかりません。ただ育った頃の思い出は、諏訪神社のお祭りにたくさんの人が集ったりなど、ともかく陽気で温かさのある町でした。少年時代を過ごした西日暮里のアパートには下町独特のユニークな人々と、匂いが溢れていました。朝は朝餉(あさげ)、夕方には「早く家に帰っておいで!」と子供たちを家路に誘うような七輪で魚を焼く匂いなど、人や町全体がオープンで、包み込んでくれるような温かさがありましたね。まだ各家庭にテレビのない時代でしたので、夏の夕暮れ時には大家さんの縁側に近所の人々が集まり、みなで娯楽番組に興じたりしていました。物がなかった代わりに、心の豊かさがあったような気がします。それが、私という人間の核を形成してくれたのだと思っています。時代は変わりましたが、“人の心の豊かさ”は、ぜひ継承していって欲しいものです。出来ましたらいつか荒川区でしか出来ないような“個展”が開催できたらと思います。これからも、明るく楽しい街であることを願っています。


   
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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