荒川ゆうネットアーカイブ
 荒川ゆうネットアーカイブは
 荒川区の地域ポータルサイト「荒川ゆうネット」の
 過去ログです。
トップページ > 特集 > 荒川区の著名人「フォーク・シンガー 小室 等」
荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
内容は、掲載当時のものとなります。
荒川区の著名人
あらかわは定住と漂流が行きかう場所
フォーク・シンガー 小室 等 作品 コンサートの様子  
映像を観る
「映像を観る」のご利用方法について
WindowsMediaPlayerをお使いの方
56k 56k(ナローバンド)版を観る
ブロードバンド ブロードバンド版を観る
RealPlayerをお使いの方
56k 56k(ナローバンド)版を観る
ブロードバンド ブロードバンド版を観る


小室 等(こむろ ひとし)さんプロフィール


【経歴】
昭和18(1943)年、東京生まれ。荒川区尾久で少年期を過ごす。1968年、グループ「六文銭」を結成。1971年、第2回世界歌謡祭にて「出発の歌」(上條恒彦と六文銭)でグランプリを獲得。1975年、泉谷しげる、井上陽水、吉田拓郎と「フォーライフレコード」を設立。

 現在は、自身のコンサートを中心に活動するなか、谷川賢作(pf)とのセッション、さがゆき(vo)との「ロニセラ」、娘であるこむろゆい(vo)との「Lagniappe」、「六文銭 '09」(小室等、及川恒平、四角佳子、こむろゆい)などのユニットでのライブ活動も。
 他ジャンルのミュージシャンとのコラボレーションやイベントプロデュースも多数。
 テレビドラマ(NHK金曜時代劇「蝉しぐれ」、TBS「高原へいらっしゃい」「遠い国から来た男」他)、映画(ドキュメンタリー「ナージャの村」他)、舞台(ミュージカル「スパイ物語」、他)などに音楽を提供するなど幅広く活動している。

 最新アルバムは、「ここ/Lagniappe(ラニヤップ)」 CCLK-0001、「おとのば/六文銭 '09」FLCF-4279、谷川俊太郎プロデュース、小室等(vo,g)谷川賢作(pf)によるアルバム「NO GOOD WITHOUT YOU/小室等」 ORCD-9004

インタヴューア 江坂裕子

質問:荒川区との関わり、子供の頃の地域の思い出などをお聞かせ下さい。
インタビュー風景
演芸場はフリーパス
 生まれは葛飾区堀切ですが、生後間もなく荒川区に移り、旧町名の尾久町3丁目で20歳まで過ごしました。都電の停留所でいうと熊野前と宮ノ前のちょうど中間あたりです。父が電気工事店を営んでおり、小さな工場の一角に家があり、周囲にまだ原っぱや空き地が残る、家内製工場やモルタルの安アパートが点在するような地域でした。家から熊野前の停留所に向う通りが、少々賑やかな商店街で、熊野前銀座と呼ばれ、その中央あたりに熊野前劇場という演芸場があり、父と町内会の有志がオーナーでしたので、旅芸人の一座が来るとフリーパスでよく出入りしていました。当時は大衆演劇がとても盛んで、特に近所のご隠居のおばあちゃんたちの入れ込みようは大変なもので、おひねりはもちろんのこと、幕間には特上の大きな寿司桶が舞台の上にど〜んと届き、子供心に賑やかで楽しい光景でした。

都電に乗って
 宮前小学校に通っていた当時は、よく都電に乗り、三ノ輪や王子の映画街に遊びに出かけましたし、“大冒険”の気分で、少し行動半径を広げて南千住や山谷の町にもブラブラ出かけました。地域柄、いわゆる世間でいう出世した人たちばかりでなく、社会の底辺の人たちが集まる場所に、小さい頃からごく自然に接していたという感じはあります。昼間会うと「よう!元気にやってるかい」と声をかけてくれる人の良いおじさんやお兄さんが、お酒が入ると豹変してしまう様子なども始終目にしていました。ですから後年、大阪の釜ヶ崎やニューヨークのハーレムなどに行っても、町の雰囲気や人が「怖い」という感じはありませんでした。
 荒川区は東京の下町ですが“3代続いたチャキチャキの江戸”とはちょっと趣の異なる、独特の雰囲気の町でした。地方出身者も多く、様々なお国訛りが聞かれ、古くから住んでいる人は、そういう人達を優しく包み込む排他性の薄い土地柄であったと思います。

質問:音楽の世界に入られたいきさつなどをお聞かせください。
コンサート風景
母の子守唄が縁のコーラス部入部
 母方の祖父は旅回りの表具師で、歌がうまかったのか、村に着くと庄屋の家などに泊まり、近所の人を集めては浪曲をや民謡を披露するような暮らしをしていたそうです。母もその父親の血を引いたせいか、とても歌の好きな人で、幼い頃から子守唄代りに民謡、ご詠歌、歌曲、歌謡曲等いろいろ歌って聞かせてくれました。私が歌を始めたのも高校時代、放課後に母の子守唄で聞き覚えていた、かなりイイカゲンな原語の「サンタルチア」を教室で大声で歌っていたところ、是非にと誘われ、コーラス部の友人に聞かれたのがきっかけで入部しました。後日談ですが、勧誘されたのは歌が上手かったからではなく「声がでかかったから」が理由だったそうです。世の中に「ハーモニー」というものがあるのをコーラスをはじめてから知り、歌の世界にすっかり魅せられてしまいました。顧問の先生が、当時一般にはなかなか手に入らなかった“黒人霊歌”の楽譜を、PX(アメリカ軍キャンプの購買部)で調達してきて下さり、皆で一生懸命に練習し歌いました。ギターをはじめたのもこの頃ですから、フォークの道に進む下地がこの時期に出来たのだと思います。

フォークソングの世界に
 高校3年の頃、アメリカで人気のキングストントリオを知り、その斬新さ格好良さに憧れ、同じスタイルの「ジ・アローズ・フォー・ジミー」を結成しました。さらにFEN(米軍極東放送網)に耳を傾け、新しい音楽の世界に惹き付けられ、大学時代にはPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)スタイルの「PPMフォロワーズ」を結成、フォークソングの本場アメリカのグループをコピーすることにのめり込んで行きました。学生主催のコンサートが盛んに行われ始めた時期で、演奏の場は多く月に10回以上はそこここでコンサートに参加していました。学業というよりも、音楽活動に熱中し「できれば音楽の道に進みたい」と、美大を卒業した後音楽学校の再受験を目指しましたが失敗、仕方なく、専門学校の作曲科で少し学びはしましたが、すでに耳で聴いて体験的に覚えていたことばかりだと感じました。それからは実際に表現する音楽活動を経験しながら独学で培ったものの方が大きかったですね。専門の音楽教育を受けなかったことが、ある意味では良かったのかも知れません。1968年に「六文銭」を結成し、メンバーを多少代えながら、1971年の第2回世界歌謡祭で「出発の歌」(上條恒彦と六文銭)のグランプリ受賞に至るわけです。

質問:40数年におよぶ長い音楽活動を通して、なにか転機となったような出来事、あるいは印象に残っている事柄などがありますか。
インタビュー風景
渡辺貞夫さんの最新メソッド
 1965年に渡辺貞夫氏がアメリカのバークリー音楽学校から、最新のメソッドを持ち帰られ、後輩を指導育成するための「渡辺貞夫ジャズスタヂオ」を開かれました。ジャズに関しては門外漢でしたが、作曲の勉強を始めた頃で、そのテキストを手に、渡辺さんのまわりをうろうろしていろいろ勉強させてもらいました。戦後の新しい西欧音楽の移入というのでしょうか、秋吉敏子氏、渡辺貞夫氏たちが果たした時代の流れの中に、私もそこにいたのだという想いがあります。

人生の師・武満徹氏との交流
 70年代の初め、どうがんばってみてもアメリカのコピー、猿真似でしかないのではと疑問に突き当たり悩んでいた折、ジャンジャン(渋谷にあったライブハウス)でのコンサートを聴きに来られた作曲家の故・武満徹氏(1996年没)が、新聞のコラムで私の歌の感想を書いて下さったのがご縁でお付き合いがはじまりました。自らの音楽の根拠を模索する過程で「日本で日本人として西洋音楽をやっていくことの意味」について、様々なアドバイスや示唆を与えて下さった方です。
 渡辺氏や武満氏との素敵な出会いがあり、また言葉の師である詩人谷川俊太郎氏との交流からも、大きな刺激や影響を受け、グランプリ受賞の「出発(たびだち)の歌」が生まれ、またその翌年のテレビドラマ、木枯し紋次郎のテーマソング「だれかが風の中で」が書けたのだと思います。

質問:音楽を続けてこられた上での信条についてお聞かせ下さい。
インタビュー風景
歌い続けたい大衆の音楽
 かつて、パリの下町を舞台にした「リラの門」(1957年、ルネ・クレール監督)というフランス映画がありました。シャンソン歌手ジョルジュ・ブラッサンス扮する場末の酒場のギター弾きが、いつかは大舞台で歌うことを夢に見、日雇いの仕事を終えて酒場に集まってくる気取りのない人たちの求めに応じ、楽しそうに歌う姿にたいへん感動を覚えました。これこそ私の望む“音楽家”の姿だと思い、今もその想いは変わっていません。フォークソングは、それまでの日本の歌謡と異なる新しい形ではありましたが、同じ大衆の音楽なのです。大衆の中で、大衆とともに生き、誰か一人でも私の歌を欲してくれるなら、その前で歌い続けて行きたいと思っています。

質問:現在とくに力を注いでいらっしゃる活動や、今後の抱負などを。
コンサート風景
年間80回以上のライブ活動
 若い時は必死にやってはいましたが、自分の表現に対して実感が希薄だったり至らなさばかりが目立ち、またそれを繕うことに苦痛が伴っていたりと、紆余曲折ありました。今は単純に歌うことがとても楽しいのです。パワーなどでは若い頃のようには出来ませんが、逆に若い頃には絶対に出来なかった歌い方が出来ていると確信しています。これは40年一筋にやってきたご褒美なのかもしれません。あまりに楽しいので、どこかに落とし穴があるのではないかと、ちょっと注意深くしなければと思うくらいです。今年は61歳ですから、今後出来ることはそう多くはないかもしれませんが、今の気持ちを大事にして行きたいと思っています。ライブの予定や活動についてはHPでご覧下さい。
http://www.forlife.co.jp/komurohitoshi/


町興しの米作り、酒造り
 1992年に山形県の白鷹町で開かれた「第1回アジア音楽祭in 白鷹」というフェスティバルのプロデュースに関わったことから、白鷹町の人々との交流が生まれました。白鷹に通いはじめて4年目ぐらいに、音楽祭に関わっている地元の若者たちの間で「平成しらたか蔵人考」の話が持ち上がり、組頭をおおせつかることになりました。農業に素人の私に何が出来るのか危惧はありましたが、喧々諤々の話のまとめ役として参加しています。米作り、酒造りの体験ができ、なにより「大吟醸酒」という収穫をあげることが魅力で、以後毎年白鷹通いが続いています。「自分たちの町が、元気になること」を面白がり熱意を傾ける若者たちの姿に魅せられ、少しでも助けになればと思うと同時に、私自身も大いに楽しんでいます。しらたか平成蔵人考のHPは以下、会員も募集しています。

最新刊エッセイ集
 2004年5月に、岩波新書で「人生を肯定するもの、それが音楽」(定価700円)というエッセイ集を出しました。これは、有名無名を問わずこれまで私が関わった人々との話をまじえて「音楽が立ち上がる場」を感じた瞬間、人々との関わりの中で掴み取った手ごたえを自分なりに咀嚼し、自己の表現にどのように結びつけて行ったかなどのエピソードをまとめたものです。私にとって忘れることのできない武満徹氏の言葉「人生を積極的に肯定する情熱がない限り、歌は生まれないだろうと思う」から、タイトルをつけました。楽しく面白い読み物に仕上がったと思っています。ぜひご一読ください。
著書

質問:小室さんにとっての荒川区、その良さや魅力などをお聞かせ下さい。
隅田川
私にとって歌の原点
 かつて「東京」というアルバムを作りました。同じ荒川の住民だった白石ありす氏の詩で、荒川周辺の町、墨田川から見る東京の情景が綴られています。私にとっての東京はイコール荒川区で、歌の原点とも言えます。育った地域は、そこに居続ける人と、入ってくる人出て行く人の行きかう場所だったように思います。定住と漂流が攪拌されることにより、新しい風、新しい水が生まれます。荒川は人間のコミュニティーが良い形で発展する気風を持っている地域だと思います。自分のところだけが良ければと言う考えではなく、お互いが他を受け入れ、折り合いをつけていくということは、大切なことです。懐の深さがある地域というのが、荒川区の大きな魅力ではないでしょうか。


邦楽専門のライブハウス
 日暮里の駅前に、全国でも珍しい邦楽専門のライブハウス「和音」があります。
 純邦楽から、洋楽器とのセッション、ワールドミュージックなど、邦楽器を使った音楽が聴けて、演奏できるユニークなお店です。こうしたお店が、渋谷でも新宿でもなく「日暮里」にあるということが面白いと思います。ハイブリッドと言うか、異なる種類の何かと何かがぶつかり、混ざり合ってそこから新しい面白いものが生まれてくる、それを生み出す土壌が、荒川という地域には営々と培われているのだと思います。

   
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

前のページへ戻る
トップページへ戻る
ページの先頭へ戻る

トップページへ戻る