荒川ゆうネットアーカイブ
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トップページ > 特集 > 荒川区の著名人「落語家 三遊亭好楽」
荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
内容は、掲載当時のものとなります。
荒川区の著名人
気配り心配りが今も息づいている下町の生活
落語家 三遊亭 好楽 インタビュー会場になった「お江戸上野広小路亭」入口にある好楽師匠の名札 イメージ 三遊亭好楽師匠
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三遊亭 好楽(さんゆうてい こうらく)さんプロフィール


【経歴】
昭和21(1946)年8月、東京都池袋の生まれ。小学生の頃からラジオで落語に親しみ、京華学園商業高等学校時代、友人に誘われたのがきっかけで寄席に通い、落語の魅力に惹きこまれる。林家正蔵(彦六)の人情噺に魅せられ、卒業後の昭和41年に師匠宅に4日間通い詰め弟子入りを許される。前座名は「林家九蔵」。昭和46年、二ツ目昇進。昭和56年、真打昇進。同時期、日本テレビの人気番組「笑点」大喜利メンバーとして出演。昭和58年、林家正蔵師の死去により、三遊亭円楽門下に移り、「三遊亭好楽」と改名。心機一転をはかり、「笑点」を降板、独演会や一門会で、古典落語をみっちりと修行。以後3年間に約60席のネタをおろし(自分のものとしてマスターし、高座で演じる)、芸に磨きをかける。昭和63年に「笑点」に復帰し、現在も大喜利レギュラーとして活躍中。平成16(2004)年5月には、長男・三遊亭王楽の二ツ目昇進で、親子で高座を盛り上げている。
【趣味】
競馬、株、ゲートボールは公認審判員の資格を持つ。

インタヴューア 江坂裕子

質問:子供の頃や、落語と出会ったきっかけ等について、お聞かせ下さい。
インタビュー風景
インタビュー会場になった「お江戸上野広小路亭」入口にある好楽師匠の名札
がき大将の少年時代
東京の池袋で8人兄弟(男5人、女3人)の6番目として生まれました。小学校に入学する前年に警察官だった父が急死し、母が編み物や炭の小売で家計を支えてくれました。兄や姉たちも早くから働いていましたし、私も新聞配達などをして、家計を助けていましたね。そのような生活でしたが、家庭は賑やかで明るい雰囲気でした。私の天性の性格でしょうか、人を笑わせたり、楽しませるのが大好きで、いつも近所の子供たちと大勢で遊びまわっていました。オリジナルの遊びを考え出すのが得意で、明日は何をして遊ぼうかと、そればっかり考えていました。当時は野球が盛んでしたので、一声かければ、40人からの仲間が集まり、野球チームがいくつも作れるほどでした。「私がショートで4番だよ!」などとリーダーシップを握って、まさにがき大将でしたね。

怖い母親が見せた笑顔
母は、父親の居ない家庭で、曲がった子に育っては困ると、厳しく私達を育ててくれました。兄弟の中では私が一番の悪がきでしたので、よく仏壇の前に座らされ、ものさしで叩かれたものでした。そのような怖い母親が、唯一笑顔を見せるのは、一日の終わりに寝ころがってラジオの落語を聞いている時でした。わんぱく少年の私にとって、母の笑顔は何物にも変え難いほど嬉しく、その笑顔をもたらしてくれる「落語」というものに出会ったきっかけでした。

質問:落語家への道を志し、林家正蔵師匠のところに弟子入りするまでの経緯をお聞かせ下さい。
インタビュー会場になった「お江戸上野広小路亭」
高校時代の寄席通い
地元の中学から京華学園商業高等学校に入学した後、学友に誘われて池袋の演芸場で落語を聞いてから、やみつきになりました。寄席は1カ月間の中で10日ごとに、上席、中席、下席とあって、メンバーが入れ替わります。毎日毎日ひとりで通い詰め、落語の世界に没頭していました。当時入場料は150円か200円でしたが、小遣いがいつもあるわけではなく、近所のお風呂やさんのビラ下(興業などの宣伝ポスターや、ビラを貼らせて貰うお礼に提供される招待券)を分けて貰ったりしました。舞台の最前列の座椅子に陣取って、最初から最後まで約4時間半の間、いろいろな噺家さんの、様々な噺に惹きこまれていました。終わってから後ろを振り返ると、お客さんは5〜8人なんてこともあり、ラジオでは人気の落語も、まだマイナーな世界でした。「あのがき、また来てるよ!」と、楽屋でかなり噂になっていたようです。そのうち、聞く側ではなく、舞台の向こう側に入ったら、もっと面白いのではと、落語家になりたいという気持ちが強くなりました。

地味で堅物の正蔵師匠
桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生、当時は若手の柳家小さん、林家三平、月の家円鏡(現:橘家圓蔵)、三遊亭円楽、立川談志・・・、キラ星の如く活躍していた落語家の中で、私が師匠と心に決めたのは一番地味で堅物の林家正蔵師匠でした。噺や語り口に惹かれたこともありますが、どっしりとした、昔かたぎの人間性に、早くに亡くした父の姿を重ねていたのかもしれません。住所を調べて、土砂降りの中を、東上野(当時稲荷町)の長屋に訪ねて行きました。1日目はやっとの思いで家を探しあて、翌日は、朝早くから出かけてようやく拝顔が叶い、弟子入りをお願いすると「落語家になんかなっても、5年はお金にならないよ!」「これからは寄席も廃れていく、こんな商売はダメだよ!」などと、延々と諭され、「はい」と素直に引き上げました。入門したい一心ですから、言われたことは何にも頭に入っていません。その後も懲りずに出かけて行き、4日目にして、「覚悟しておやんなさい!」と入門を許されました。その時、師匠は長ひばちを前にして、おかみさんと“にこっと”顔を合わせ「ばあさん、信夫がもどってきたよ!」とひと言おっしゃいました。後で分かったことですが、師匠のご長男は17歳で亡くなられていて、その息子さんの名前が私の本名と同じ信夫だったそうです。不思議なご縁があったのでしょう。

肝っ玉母親の強烈なひとこと
入門が決まった後に、母とともに御挨拶に伺いました。本人のたっての希望とはいえ、芸人といえば「かわら乞食」の世界、正蔵師匠は母に、「いいんですか、お母さん。大事な息子さんをこの世界に入れて」と気を遣って念押ししてくださいました。「いいんですよ、泥棒よりは・・・」という母の強烈な答えに、さすがの師匠も驚いたようです。「お母さんいいネェ」と、後々まで語り草になった母ですが90歳を過ぎた現在も、カクシャクとしています。

質問:真打昇進後「三遊亭好楽」師匠として、古典落語にも精進され、「笑点」大喜利のメンバーとしてもご活躍ですね。
インタビュー風景
現代に通じる古典落語
正蔵師匠のもとで真打になりましたが、昭和58年に師匠が亡くなられ、円楽師匠の門下に移り、そこで「三遊亭好楽」の名前をいただきました。これまでに古典落語は60席ぐらい演じてきました。古典落語はもともと何千何百とあり、奥は深いのです。江戸期以来現代まで残っているのは、約300席程です。なかでも圧倒的に多いのが「まんじゅう怖い」などの滑稽噺、そのほか人情噺、怪談噺、地噺、音曲噺などがあります。人間社会の親子、夫婦、主従、金銭、嫉妬などをテーマにしたものは、いつの時代にも通じるものとして、残ったのだと思います。落語の噺には生活の知恵や、教訓、道徳、人が社会で生きていくためのルールなどが、宝のように盛り込まれています。

得意ネタは「抜け雀」
「抜け雀」という噺は、絵描きの名人が旅籠に逗留し、宿賃のカタに衝立に雀の絵を描き、描かれた雀がそこから飛び出すという内容です。名人とはとても思えないような絵描き、人の良い旅籠の主人等、悪人が登場せず、突拍子のないロマンと夢があり私の好きなネタです。私はともかく明るいネタが好きですが、年とともに人情噺にも造詣が深くなりました。

「笑点」は同期生
テレビの長寿番組「笑点」は、ちょうど私の入門した昭和41年5月から始まりましたので、いわば落語の同期生と言えます。昭和54年から4年間出演し、その後再び、昭和62年から現在まで17年間出演させていただいています。テレビで顔を知っていただき、少しでも多くの方に落語の面白さを判っていただければ本望です。次はぜひ、生(ライブ)の落語を聞きに寄席に足を運んでいただきたいと思います。

質問:荒川区との関わりはいつ頃からでしょうか。荒川の良さをどのように感じていらっしゃいますか。
インタビュー風景
荒川は憧れの地
前座修行時代、5年間ほどは毎日、大塚の実家から山の手線で西日暮里、日暮里を通って、上野の師匠宅に通っていました。荒川は昔から噺家さんが多く住んでいた場所でしたので、当時から憧れの地でしたね。所帯をもち、都内を転々としましたが、「好楽」と改名した昭和58年に、西日暮里3丁目の富士見坂に、マンションを購入し移り住みました。以来20余年荒川区の住人です。


富士山が望める景勝地
西日暮里の富士見坂は、富士山が望められる景勝地です。空気の澄み切った冬の寒い時期には、多くの人たちが富士山を見に訪れます。我が家から富士山を見ることが出来るという贅沢は、何にも代え難いものです。


神社とお寺の町
家のすぐ側にある諏訪神社の境内は、五代目の志ん生師匠が稽古をよくしていたと聞いたことがあります。境内からは毎朝ラジオ体操の声が聞こえ、近くには小学校もあるので、お年寄りや子供たちが仲良く接しているのを見掛けます。諏訪神社には毎日のようにお参りしますし、盛大なお祭りは家族揃って楽しみにしています。お寺も多く、部屋の窓からは付近の墓地が見渡せ、風にカタカタと鳴るお塔婆の音に耳を傾けていると気持ちが安らぎます。気軽に声をかけあって暮らす下町のあけっぴろげな近所付き合いが息づいていて、我がマンションもさながら「マンション長屋」といったところです。道で出会うと「ちゃん」づけで親しく呼び合い、温かい雰囲気が感じられるところがいいですね。

質問:ご長男も落語家の道に入られ、二ツ目に昇進されましたが、どのような思いですか?
仕事風景
内も外もどこでも同じ
信条いうと大げさですが、家の中と外の区別なく、高座でも楽屋でも、どこでもすべて同じ生き方であるということです。装ったり、つくろったりということが苦手でありのままで、いたってシンプルです。人様に対する気配り、心配り、サービス精神は持って生まれたものかもしれませんが、落語家として仕事をして、人の心情を分かることが、いかに人として大切かを痛感しています。

映画を観るにもマナーがある
我が家の子供たちには、映画を鑑賞するなら、「劇場に行ってドキドキしながら、没頭して見ることが、作った人へのマナーだよ」と常々言っています。ビデオは自分のペースでトイレに立ったり、電話に出たりすることも可能で、他のことをしながらでも鑑賞出来る利便性はありますが、その世界に没頭することがなおざりにされてしまいます。映画の最期に流れるスタッフロールは、ただ名前を載せてあるのではなく、制作に関わったひとりひとりの思いが込められているのだと言えます。これは一つの例ですが、あらゆるものに対する気配り、心配りは、人間社会に全てに通じることだと思っています。

質問:ご長男も落語家の道に入られ、二ツ目に昇進されましたが、どのような思いですか?
インタビュー会場になった「お江戸上野広小路亭」入口
円楽門下の兄弟弟子
息子は姉二人の末っ子で、人前で話すのが苦手というようなちょっと気弱な子でしたから、落語家にはとても向いていないタイプだと思っていました。それが、大学を卒業する頃になって、突然「落語家になりたい」と言い出して、驚きました。下の娘が、デパートの地下でおはぎやを出店しているので、そこで1年間お金の大切さを勉強させるために勤めさせました。そのうち気が変わるんじゃないかと思っていたのですが、1年たったら、「お父さん、よろしいですか?」と再び落語家になりたいと言ってきました。落語家の子供が落語界入りする場合、多くが父親に入門しますが「私は弟子はとらないよ」と言ったら、本人も「その気はありません。円楽師匠のところに行きたい」と私の師匠に弟子入りし、前代未聞の親子で兄弟弟子になったわけです。現在、円楽一門の27番目の弟子として「三遊亭王楽」という立派な名前を付けていただき、3年前の5月から、前座修行を始めました。


親子でライバル
息子はもともと、野球に関する知識や、映画に関するデータを覚えるのが得意なところがあり、知識欲は旺盛でした。幸い円楽師匠に可愛がっていただき、入門してすぐ10席ものネタを教えていただきました。「私は30年もやっているのに、たった3席だよ」と兄弟子の楽太郎師匠にひがまれるほどの幸運な境遇ですが、親としてはハラハラドキドキの日々でした。おかげさまで今年5月には、二ツ目に昇進させていただきました。4年目に入り「これからはライバル」という気持ちで、ともに精進していければいいと思います。
私も負けてはいられません。近々の予定では、7月22日(木)に昭島市民会館で「朝日さわやか寄席」があります。落語の醍醐味はやはり生(ライブ)で味わっていただきたい。ぜひ、足をお運びいただけたらと思います。

質問:最後になりますが、今後とも地域で大切にしたいことなどについて、ひと言お願いいたします。
インタビュー風景
大切な言葉
朝、道で顔を合わせ「おはよう!」と、大きな声で挨拶をかわせば、誰しも気分は良いはずです。言葉は大切な要素です。下町の人たちは、到来ものをおすそ分けする時に、「いっぱい貰ったんだけど、食べてくれる?」という言い方をしていました。この、「食べてくれる?」がいいと思いませんか。押し付けがましくなく、相手の気持ちになって、心配りの利いた言葉ですよね。こういう何気ない言葉や、日々の挨拶を地域の中で大事にしていきたいですね。

下町の良さを継承するのは地元民
下町の良さは、人と人との温かいつながりで生まれます。開けっぴろげでいて、必要以上は踏み込まない、適度な距離と相手に対する気配りが、その地域に住む人々に心地良さをもたらしてくれるのだと思います。汚れているのに気がつけば、道路や神社の掃除をする、子供たちが危ないことをしていたら声をかける、お年寄りが困っていたら手をかしてあげるなど、ささいな日常のことを皆でこころがけていれば、いつまでも住みやすく温かい町であるはずです。地元の人たちが、出来ることからみんなで協力していきましょう。

   
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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