荒川ゆうネットアーカイブ
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荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
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荒川区の著名人
“祭り起こし”に燃える荒川生まれの下町気質
歌手 橋 幸夫
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橋 幸夫(はし ゆきお)さんプロフィール


【経歴】
昭和18(1943)年5月、東京都荒川区尾久にあった染物屋の9人兄弟の末っ子として誕生、下町の人情味溢れる環境の中で幼少時代を送る。昭和35年、「潮来笠」で歌手デビュー。17歳の凛々しい若者に日本国中で人気は高騰、爆発的大ヒットで日本レコード大賞新人賞の第1回受賞者となる。以降、数々の音楽賞を受賞し、現在までに発表した曲はシングル、アルバム含め500曲を超える。昭和63(1988)年、日中国交正常化15周年記念に上海文化広場で3万人コンサートを開催、その他海外公演も積極的に行い国際親善にも貢献している。平成12(2002)年、文部科学省より歌を通した様々な活動に対し「特別感謝状」を受章。昨年(平成15年)は青森県の「ねぶた観光大使」に任命され、新曲「ねぶた節」「北回帰線」をリリース。来年(平成17年)の芸能生活45周年に向け、舞台、テレビで「新生・橋幸夫」として益々活躍中。
また、老人性痴呆症の実母の介護体験を綴った「お母さんは宇宙人」(平成元年サンブリッジ発刊)「宇宙人バンザイ」(平成7年小学館発刊)の著作、介護をテーマに講演活動も活発に繰り広げている。
【受賞歴】
昭和35年「潮来笠」日本レコード大賞新人賞(第1回)、昭和37(1962)年「いつでも夢を」(吉永小百合さんとのデュエット)日本レコード大賞、昭和41(1966)年「霧氷」日本レコード大賞(2回目)、昭和47(1972)年「子連れ狼」日本レコード大賞大衆賞・全日本有線放送大賞特別賞ほか、昭和58(1983)年「今夜は離さない」日本有線大賞特別賞、平成11(1999)年美空ひばりメモリアル選奨、平成14年日本レコード大賞特別功労賞など、受賞多数。
【趣味】
ゴルフをはじめ、空手、柔道、ボクシング、テニスなどスポーツ万能。

インタヴューア 江坂裕子

質問:荒川区のご出身ですが、幼少期の地域の思い出などについてお聞かせ下さい。
インタビュー風景
幼い日の尾久の記憶
生まれは荒川区尾久3の2150番地、なぜか番地は今でもしっかり覚えています。6男3女の9人きょうだいの末っ子として生まれ、5歳まで両親が染物屋を営んでいた尾久で暮らしました。幼い頃のことですから、私自身の記憶は断片的ですが、当時の話は家族によく聞かされています。第2次世界大戦が終結して間もない頃の尾久は、まだ田舎の風情が多分に残っている場所だったようですね。商店街が連なる賑やかな場所ではなく、住宅地や畑の間に数軒の商店が点在しているような町でした。家の近所には、比較的大きな町工場もありましたね。我が家の向かいには「日ノ本あられ」という煎餅の製造工場があり、両親や兄たちに連れられてよくお邪魔していたので、近所との付き合いは密接だったようです。まだメンコやビー玉遊びの仲間に加えてもらえる年齢ではありませんでしたが、いつも兄たちに連れられて、近所を飛び回って遊んでいました。

大家族の中で不自由ない暮らし
現在は9人きょうだいと言うとびっくりされる方もいらっしゃるでしょうが、昭和20年代は10人前後のきょうだいがいるのはめずらしくなく、どこも大家族でした。賑やかに家族の絆を深めながら、生活の知恵を学んでいたのでしょうね。両親は仕事や家事に忙しく、上の子が下の子の面倒を見るので、一番年下の私は皆の世話になり、戦前戦後の混乱した時代でしたが、兄弟のお陰で何不自由なく育ちました。長兄とは年齢が24歳離れていたので、私が物心ついた頃には上の兄たちは立派な大人でした。埼玉に疎開していた頃も、疎開先で私が苛められたりしないようにと、保護者の気分で随分と気を遣い、面倒をみてくれたようです。

質問:昭和35年、17歳で歌手デビューされましたが、歌手になられたきっかけや、それ以降の芸能活動についてお聞かせ下さい。
ご自宅には、人生を振り返り描いた一幅の絵画が飾られている。
歌謡教室でのレッスン
5歳(昭和23年)で池袋に転居し、小・中学校に進んだのですが、池袋は尾久の閑静な住宅地に比べるとそれは賑やかな繁華街でした。場所柄いろいろと遊びの誘惑も多く、年齢的にもエネルギーが有り余る“遊びざかり”にさしかかって来たので、「悪い遊び」に向かわないようにと心配した母の勧めで、中学2年の時(昭和32年)、作曲家・遠藤実先生の「歌謡教室」に入りました。当時、家は中野に移っており、歌手の藤島恒夫(ふじしまたけお)氏を担当していた近所の床屋さんの紹介だったと思います。もともと歌は好きで、学校の遠足などで皆の前で歌っていましたが、歌手になる、というはっきりした目的意識があったわけではなく、空手や柔道と同じ“お稽古ごとの一つ”のつもりでした。
昭和30年代の初めは、歌謡曲の人気が高まっていた時代でした。三橋道也氏、村田英雄氏などが次々とヒット曲を出し、ラジオから一斉に歌謡曲が流れ、あちらこちらで皆が同じ歌を口ずさんでいました。作曲家の先生が主宰する歌謡教室がたくさんでき、そこでレッスンを積み、レコード会社のオーディションを受けるというのが、当時の歌手になるための一般的な道でした。

オーディション合格
遠藤先生のレッスンに通って3年、高校1年(昭和34年)の秋に、レコード会社のオーディションに挑戦することになりました。残念ながらコロンビアレコードは落ちたのですが、ビクターに合格し、その専属作曲家だった吉田正先生のレッスンを受け、高校2年の夏にデビューしました。一緒にデビューした仲間に、現在俳優で活躍している佐川光男氏がいました。「御三家」と言われた舟木一夫氏、西郷輝彦氏とはデビュー時期が少しずれていましたね。「潮来笠」ヒット後の数年は、ともかく無我夢中の状態。生活が一変し、学校も高校の最後の年にはほとんど通学できませんでした。母の引いてくれたレールに乗って、自分ができる全ての努力をして来ました。恩師である吉田先生との出会いなど、歌手としては大変恵まれたスタートだったと思います。吉田先生は平成10年に亡くなられましたが、今年(平成16年)4月、故郷の茨城県日立市に「吉田正音楽記念館」がオープンしました。日本の歌謡曲史上に記された先生の功績に、身近に触れることの出来る貴重な資料の数々が展示されています。興味のある方は、ぜひ一度訪れて頂きたいですね。(問い合わせ先TEL:0294-21-1125)

ラジオからテレビへ時代の変遷
私がデビューした当時は、演歌という言葉は一般的に使われていませんでした。青春歌謡、リズム歌謡など、多少の違いはあっても「歌謡曲」という総称で呼ばれ、その伝達媒体はラジオが主体でした。もちろん、蓄音機やレコードは普及していましたが、数少ないラジオから曲が一斉に流れ、老若男女全ての人が同じものを聴き、曲に馴染み、そして口ずさむという状況でした。このような中で、多くの人に共通する“夢と希望と憧れ”が込められ歌が一世を風靡したのだと思います。テレビの普及や放送技術の進歩の中で、私の歌手生活も半世紀近くになりますが、ここ20年ほどで歌の世界が急速に変化した、という感慨は強いですね。娯楽そのものが多様化すると共に、歌のジャンルや聴き方も多様化しました。電車の中でイヤフォンを使って音楽を聴いている人を見かけますが、何を聴いているのか周囲の人には全く分からないという様に、歌というものが非常にパーソナルな存在になってきました。もちろん“歌は世につれ…”、当然変わってゆくものではありますが、ご存知の通り、良い歌は変わらずに永く歌い継がれていきます。そのような、人々の心に残る歌を私は、これからも唄い続けていきたいと思います。

質問:昨年(平成15年)還暦を迎えられ、来年は芸能生活45周年。益々ご活躍ですが、現在力を入れて取り組んでおられることと、今後の目標は?
インタビュー風景
19年ぶりの座長公演
今年(平成16年)7月名古屋の中日劇場で19年ぶりに座長公演を行います。お芝居と歌の納涼特別公演です。芝居は新版徳川宗春「にぎわい大名」、田川寿美さん、二宮さよ子さん、堤大二郎君を迎え、華やかで楽しい舞台にしようと、今は稽古と準備に追われています。歌の方は、「橋幸夫オンステージ、星まつり☆夢の華舞台」で、たっぷりと橋幸夫ワールドを楽しんで頂きたいと思っています。(チケット予約・問い合わせ先/中日劇場 TEL:052-263-7171)

日本歌手協会のまとめ役
社団法人日本歌手協会(青木光一会長)は、昭和38(1963)年に設立されたプロ歌手の団体で、現在470余名の会員がいます。平成15〜16年度の副会長に任命されておりますので、こちらの仕事もしっかり勤めたいと思っています。大衆歌謡歌手の歌唱技術の向上や、音楽文化の発展などを目的とした協会ですが、まず、ごく基本的なところで「歌手の権利と利益と名誉を守る」活動を推し進めたいと考えています。作詞作曲に対しては著作権がありますが、歌い手の「歌唱権」に対する規制や法律は皆無なので、何とか打開したいと思っています。

地域結集の“祭り”の醍醐味
平成14年、青森のねぶた祭りに「ねぶた観光大使」として参加させて頂き、“祭り”の醍醐味を味わい、人の心を結びつける魅力を改めて再認識し、熱い想いを抱いています。歌手として参加することはもとより、祭り起こし(プロデュース)を手がけてみたいという熱意に燃えています。今年の夏は、茨城県の「燃えろ! 水戸祭り」を企画準備中です。このために「幸幸音頭」という新曲も制作中です。
東京にも江戸時代から続く下町の、神田明神の神田祭(神田)、浅草神社の三社祭(浅草)、素盞雄神社の天王祭(荒川)など、壮大な祭りが数多くありますよね。祭りの盛んな地域は、人々の心の結びつきがとても強いと思います。逆に、人の心の結びつきが強いから祭りが盛んなのだと言えるのかもしれません。荒川生まれの私自身の中に、祭りに燃える下町気質が受け継がれているのでしょう。都市化が進み、人と人との繋がりが希薄になりつつある現代こそ、地域結集の起爆剤として“祭り”が大切な役割を担うのではないかと思います。

質問:実のお母様の介護体験を出版され、全国各地で講演会を行われていますが、詳しくお聞かせ下さい。
インタビュー風景
お年寄りから学ぶこと
実母は平成7(1995)年に88歳で他界しましたが、老人性痴呆症が発症した晩年(約7年間)は、私の家族が介護しました。仕事中心の世の中で、状況が許さない場合も多いのですが、「年老いた親の世話を家族が行うのは当然のこと」だと思うことが、介護の原点です。「自宅の畳の上で最後を迎えたい」という、人として当たり前の希望を受け入れる理解が必要です。
痴呆症を患った母の介護は大変でしたが、介護しながら私たち家族は、母から学ぶことが数多くありましたし、その状況の中でいろいろと考えさせられ、絆を深め合い、試行錯誤しつつ成長しました。もちろん身内だけで全ての介護を背負うことがベターだとは思いません。ここ数年で介護保険法が整備され、ホームヘルパー、ショートステイなど、外部の助けを借りることが可能になりましたので、大いに利用すべきだと思います。大切なのは、介護する側の心のケアです。“やっかいなこと”と構えたり、完璧な介護をしようと無理をしたりせずに、まず現状を自分なりに受け入れた上で、要介護者とともに自然に生きることです。介護や医療に関する体験談を元にした講演を、全国600ケ所以上で行ってきました。今後の高齢化社会に向け、少しでもお役に立てればと、私のライフワークとして今後も続けていきたいと思っています。

質問:最後に、「故郷」荒川区に対する想いをひと言お願いいたします。
インタビュー風景
家族と同じ地域社会
東京の下町である荒川区は、もともと人々の関わりが密接な地域です。家族と同様に、地域社会は人が生きていく上で非常に大切な共同体です。今後も、地域の人が皆で子供を育み、お年寄りを見守る、そんな温かい町、癒しのある地域であって欲しいと思います。都市化とともに失われつつある、下町の密接な人間関係の素晴らしさを次の世代に引き継いで行ける素晴らしい魅力が荒川にはあると思っています。

   
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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