荒川ゆうネットアーカイブ
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トップページ > 特集 > 荒川区の著名人「漫才師、漫才協団会長 内海桂子」
荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
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荒川区の著名人
下町の息吹が育んだ、わたしの芸人人生
漫才師、漫才協団会長 内海桂子
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内海 桂子(うつみ けいこ)さんプロフィール


【経歴】
大正11(1922)年千葉県銚子生まれ、本名は安藤良子。浅草、南千住で幼少期を過ごす。小学校の頃から三味線や踊りの稽古を積み、昭和13(1938)年、高砂家とし松氏とコンビを組み、雀家〆子の芸名で漫才師として初舞台を踏む。昭和25(1950)年、14歳年下の好江さんと内海桂子・好江コンビを結成、歯切れのよい東京漫才の女性コンビとして注目を集め、昭和33(1958)年NHK漫才コンクールで優勝。平成9(1997)年に好江さんが亡くなるまで48年間に渡り、人気漫才コンビとして活躍。平成10(1998)年には、リーガル天才氏の後を受けて、漫才協団5代目会長に就任、後進の育成に熱意をかたむける。82歳を迎えた現在も、漫談、講演で舞台に立ち、映画、テレビドラマなど多数出演、芸達者ぶりを披露している。
【受賞歴】
昭和33年NHK漫才コンクール第1位、昭和55(1980)年、漫才師としては初めて芸術選奨文部大臣賞受賞、平成2(1990)年浅草芸能大賞、平成6(1994)年第45回放送文化賞など多数。紫綬褒章(平成元年)、勲四等宝冠章(平成7年)を受章。
【趣味】
相撲や野球のTV観戦。また、折りに触れ綴ってきた川柳や都々逸絵日記、絵画の実績を認められ、平成14(2002)年、銀座三越で初の個展を開催。評判を呼び、山梨県昇仙峡にある影絵の森美術館で常設展示されている。今年の5月に開催される三社祭の期間中は、浅草松屋で個展開催。自身の人生を綴った著書も多数出版。

インタヴューア 江坂裕子

質問:荒川区との関わり、子供の頃の地域の思い出などをお聞かせ下さい。
ご自宅には、人生を振り返り描いた一幅の絵画が飾られている。
ご自宅には、人生を振り返り描いた一幅の絵画が飾られている。
しゃきしゃきの江戸っ子
父は深川の籐職人、母は本所の床屋の娘でした。2人が20歳の時に駆け落ちして大正11年に私が生まれ、あちこち転々としたそうです。世田谷の小学校に入学しましたが、その後は田中町(今の日本堤)の祖父の家で暮らしました。小学校3年で中退し、神田の大店のお蕎麦屋さんに子守奉公に出ました。奉公先の3歳年下の坊ちゃんの学校への送り迎えやお店の手伝いなどをしたんですが、「年端のいかない子供なのにかわいそう」というご主人の好意で、1年程で、当時南千住2丁目に住んでいた母のもとに帰され、その後、南千住の第二瑞光小学校の夜学の4年生に編入させてもらってしばらく通いましたが、卒業には至らず、「小学校四年修了」が私の最終学歴になってしまいました。

南千住の暮らし
昭和初期の南千住の界隈は長屋が建て込んでいて、路地の入り口にある共同水道で、近所のおカミさんたちが亭主や子供の話をしていた光景など、懐かしく思い浮かびます。また、鉄道の引込み線が近所にあり、そこに石炭やコークスを積んだ列車が入ってくると、おカミさんたちがバケツを持って来て、山積みの列車からこぼれ落ちる石炭を貰って帰り、家庭の煮炊きの燃料にしていましたね。

下町の子供たち
駄菓子屋やもんじゃ焼き屋は子供たちの溜まり場で、仲良く大勢で遊んでいました。明治通りの角に大きな乾物屋さんがあり、夜はその店先にぶら下がっていた裸電球のおかげで周囲が明るく照らされ、その風景が印象に残っています。縄跳び、鞠つき、かくれんぼうなどをして夜遅くまで遊んでいました。「電気消すからもうお帰り!」とお店の人に言われ、みんなしぶしぶ家に帰って行ったもんです。
大勢で遊んでいましたので、当然、子供たちの間には優劣がありました。ガキ大将がいて威張ってはいるけど、できない子、弱い子の面倒もみる。子供なりに1つの社会を作っていたんですね。私は、けんかをすると、相手が男の子だろうと追いかけて行ってやっつけたり、結構お転婆で活発な女の子でした。

三味線と踊り
南千住の引込み線のすぐ近くに坂東小三寿(のちに坂東三代親)師匠の家があり、子守奉公から戻って来た昭和9年頃に、母の勧めで踊りと三味線のお稽古を始めました。母は芸事をひと通りこなし、私自身も芸事は下町の女性のたしなみであるという思いで、一生懸命でした。「芸は身を助ける」と言いますが、これが私の芸人修行のスタートになろうとは。線路際の道を通って、周りの情景を眺めながら、毎日お稽古に通いました。でもお稽古代は自分で稼いだんですよ。

質問:昭和13年、浅草の橘館で漫才の初舞台を踏まれましたが、これまでの経緯をお聞かせ下さい。
インタビュー風景
チンドン屋、演芸一座の地方巡業
祖父が倒れ床屋を廃業し、職を失った家族を養うため、母と私で生活を支えなければなりませんでした。幸いにも踊りや三味線ができたので、仕事はいろいろとあったんです。友達が芸者になるというのを聞いて、わけもわからず芸者置屋に住み込みで入ったものの、すぐに「芸者はいや!」と戻って来たり、三河島の演芸場三山倶楽部に出ていたチンドン屋の親方に頼まれ、1ヶ月ほど甲州の巡業に出たりもしました。この一座は、踊り、漫才、かっぽれ、茶番(歌舞伎のパロディー)などをこなす芸達者揃いで、その後のよい勉強になりました。

漫才初舞台
漫才師・高砂家とし松氏の相方をしていたおかみさんのピンチヒッターとして、昭和13年16歳の春に、浅草の橘館で初めて漫才の舞台を踏みました。大学卒の初任給が月20円の時代に、私の初任給は35円もあり、16歳の子供にとっては大変な金額を貰ったのです。もっとも、お金の管理は親がしていましたし、そのお金で家計を支えるのは当然のことと思っていたんですね。この昭和10年代は大阪で漫才ブームが起こり、東京でも帝都漫才協会が出来るなど、浅草を中心に200組を超える芸人が活躍していましたけど、とし松とのコンビは、代役のつもりが3年余に至り、トリ(最後に舞台に上がること)をとれるほどになりました。更に、とし松との間に子供ができ、19歳(昭和16年)で長男を出産するハメになっていくのです。

戦前、戦後の混乱期
昭和17年にとし松とのコンビを解消。その後、戦時色の強くなる中で、「三枡家好子(みますやよしこ)」の芸名で遊芸鑑札許可をとり、いろいろな相方と組んで漫才の舞台をこなし、外地(満州)の慰問にも行きました。昭和20(1945)年3月10日、下町全域を焼き尽くし、8万人の死者を出した東京大空襲をなんとか生き延びて、戦後は、浄閑寺(投込寺)のすぐ向かいのアパートの2階に住み、吉原でお団子や海苔巻きを売ったり、キャバレーのホステスをしながら家計をやりくりしたこともあるんですよ。今の住まいは台東区竜泉ですが、あらかわは目と鼻の先、浅草に近く便利ということもありまして、この辺の雰囲気がとても好きで、私はこの界隈からは離れられません。

内海桂子、好江コンビ結成
好江とコンビを結成したのは昭和25年で、私が28歳、好江が14歳でした。「相手は中学生、キャリアも感性も違う」と一度は躊躇しましたが、好江の「本気でやる」の言葉にかけて、私も再スタートを切ったのですが、三味線が弾けず、着物を着ることすら出来なかった彼女に、「鬼ばばぁ」のごとくずいぶんきついことを言いました。しかし、相方とは常に対等の真剣勝負で臨み、厳しいしごきに耐え続けた好江の成長はめざましかった。昭和33年にNHKの漫才コンクールで優勝し、以来48年間の二人三脚。コンビとしての危機もありましたが、荒波を乗り越え、昭和57年、漫才師としては初めての芸術選奨文部大臣賞を頂き、ふたりして万感の涙で固い握手を交わしました。早いもので、彼女が亡くなり、もう七回忌も過ぎましたね。

質問:この道一筋70年間でやってこられた師匠の、生活あるいはお仕事上の信条についてお聞かせ下さい。
インタビュー風景
いつもチャレンジ
あまり生意気なことは言えませんが、「安定の座にすわるは衰退の一歩なり」と思っています。地球は常に回っています。その動きについていくためには、安定などしていられません。安穏な状況に満足せず、常に何か新しいことに挑戦する姿勢こそが大切です。学校も満足に出ずに、社会の中でもまれ、知識も知恵も自ら身につけ、生きる糧として来ましたが、それは、私にとって幸せなことだと思っています。これからも、いつも前を向いて、一歩ずつでも進んでいきたいと思います。

質問:平成9年に好江さんが亡くなられた後も、漫才界の最長老として舞台や映画、TVドラマで活躍されていますが、現在最も力を入れていらっしゃることは?
NHK連続テレビ小説『天花』より
NHK連続テレビ小説『天花』より

サイン色紙
漫才協団五代目会長
漫才協団は、昭和39(1964)年に設立された、主に東京の漫才師の集団で、前身にあたる帝都漫才協会は昭和16(1941)年に発足しました。私が漫才を始めたのが昭和13年で、芸歴からしても最古参となり、年功序列のためか、平成10年に会長を引き受けました。この頃は若手が増え、会員数も140を超えるほどになり、平成12年には、かつて多くの芸人を世に送り出した浅草六区のフランス座が浅草・東洋館として装い新たにオープンし、毎月1日から10日まで漫才協団の上席公演を行っています。「芸人は芸がなくてはいけない」というのが、後輩たちへのアドバイスですね。芸を身につけ、磨くことによって、漫才の面白さ、深さも増すことと思います。

映画やテレビドラマに挑戦
たまたまNHKのエレベータに乗り合わせたご縁で、深町幸男監督からお声をかけて頂き、NHKのテレビドラマ「血族」に俳優として出させて頂きました。それ以降ドラマ出演が幾つか続き、平成12年には深町監督の「長崎ぶらぶら節」にベテラン芸者の役で出させて頂きました。踊れて三味線が弾ける役ということで、初めて京都の東映太秦映画村に通いました。78歳にして初めての映画出演だったんです。また、今年(平成16年)4月から、NHK朝の連続テレビ小説「天花」に出演しています。うどん屋のおかみさん役で、ついアドリブで台詞に節をつけてしまったり、周りがびっくりしていますが、楽しく収録が進んでいます。

絵画展
昭和43(1968)年頃から、その時々の気持ちを川柳や都々逸に綴り、絵日記をつけていました。著作を出すようになってからは、挿絵もいくつか描いています。それが知り合いの写真家の目にとまり、竹久夢二さんの絵を扱っている画商の港屋さんから「個展をやりましょう」とのお話を頂き、「誰に習ったわけでもない、素人の絵など……」と尻込みする気持ちもありましたが、“なんでも挑戦”の精神で、平成14年、銀座三越で初の個展を開催させて頂きました。「七・七・七・五」の頭文字を同じ字に揃えた「決め字都々逸」を夜寝ながら考えて、それに絵を添えた「都々逸絵画」を描き続けています。近々の予定としては、平成16年4月9日〜15日に多摩センター三越、同5月12日〜18日に浅草松屋で「内海桂子絵画個展」(入場無料)が開催されます。また、私の人生を綴った著書も8冊目となり、ホームページでは最近の活動や著書などの紹介もしていますので、興味のある方はぜひご覧になって下さい。
http://www2.odn.ne.jp/utsumikeiko/

質問:荒川区にかつてあった寄席や演芸場についてお聞かせ下さい。
インタビュー風景
演芸場は庶民の楽しみ
江戸時代から、庶民の楽しみは、歌舞、音曲、寄席、演芸などでした。荒川区界隈の下町にはこうした演芸、娯楽がしっかり根付いていたので、戦前にはたくさんの演芸場があったんですよ。テレビなどなかった時代ですから、どこも盛況でした。泪橋の角には柳亭という平土間の大きな小屋があり、出し物は、落語、漫才、演芸……何がかかっても10銭。三河島には三山倶楽部、尾久には金美館のチェーンがいくつもありましたね。戦前は、味噌倉や市場の2階が小さな演芸ホールとして使用されていて、近所の旦那衆が集まって浪曲や小唄の稽古をする倶楽部があったり、ささやかな庶民の娯楽として大変親しまれていたんですよ。

南千住の栗友亭
第2次世界大戦後、南千住には栗友亭という常設の小屋がありました。戦前の演芸ホールの雰囲気を復活させたいと、雑貨屋の栗本友爾氏が店の2階を改造して作って下さいました。あの地下鉄漫才で有名な一球さんの育った所です。最初の頃は漫才が主体でしたので、リーガル千太・万吉、天才・秀才、コロムビアトップ・ライトなどと私たちもよく出ていました。そのうち噺家さんが出るようになり、寄席になっていき、私たちは寄席に所属していなかったので、最後の頃はあまり出なくなりましたね。栗友亭は、昭和の終わり頃まであったのかな。テレビが普及し、最近ではこうした小屋はほとんど姿を消してしまいましたが、浅草界隈では、再び常設の小屋が復活しつつあります。荒川にもぜひ常設館ができるといいですね。やはり生で良いものを味わって頂きたいですもの。

質問:最後に、荒川区の魅力と今後に期待することなどを、ひと言お願いいたします。
インタビュー風景
由緒ある地域の誇りをもって
なんといってもこの界隈は、江戸時代から続く下町。神田界隈とはまた違った趣があります。日々の生活は苦しくとも、どこかに笑いを求め、人々はたくましく生きてきました。口は悪いけど嘘はつかず、あけっぴろげで人情が厚い、そんな下町・荒川区の大衆の息吹が、私の芸人人生への道を開き、支えとなった気がします。また、日本の文化を担った人たちの終焉の地(小塚原刑場)や、日光街道への要所(千住大橋)だったことなど、歴史的にも由緒のある地域ですから、いつまでもその誇りをもっていって下さいよと願っています。また、都内で唯一の路面電車となってしまった都電荒川線が残っていることも忘れずに。この風情をこれからも大切にしていきましょうね。

   
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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