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夏休みこども特集 シリーズ あの日の記憶-1 戦後60年「集団学童疎開」「空襲」

戦争体験者の話 星野光世さん 各地に孤児が溢れかえり、自分の力で生きてゆけない幼い子どもたちが悲しい体験を強いられました。星野光世さん

Q出身について教えてください。

店の前で家族と一緒に

 私の生まれは東京都本所区(現墨田区)菊川町です。深川区との境で、都電が目の前を走る繁華な下町でした。 家業は「たからや」という屋号の蕎麦屋で立地に恵まれ繁盛していました。店は空襲で焼失しましたが、間取りなどは今でも良く憶えています。
 1944(昭和19)年当時は、両親、兄、私、妹、弟と他に住み込みの若い衆として従兄弟が3人一緒に住んでいました。子煩悩で大変おしゃれな父は、よくデパートで私と妹に洋服を見立ててくれたので、私のタンスにはリボンやボアの付いた可愛らしい服がずらっと並んでいました。
 私の性格は家族や店の者に甘やかされて育ったせいで、気難しくわがままなお嬢さんだったそうです。先生から「あなたのような人を大人の言葉で無責任というのよ」と叱られた思い出があるくらいですから。

Q疎開の様子を聞かせてください。

 1944(昭和19)年8月、私が中和国民学校の5年生の時に戦争が激しくなってきたので集団疎開に加わりました。当初は両親の田舎へ縁故疎開を予定していましたが、その場合は中和国民学校から脱籍になると聞き集団疎開に変更したのです。 旅立つ日の朝、身重の母が学校まで送ってくれると言うのを「そんな大きなお腹で来たら恥ずかしいからいいわよ」と断ったのが今生の別れになるとは思いませんでした。
 疎開場所は、千葉県君津郡小糸村の天南寺というお寺です。周りは田んぼが広がり、小高い山に囲まれたのどかな農村でした。楽しい事もありましたが、皆早く家に帰りたくて先生を困らせました。
燃えかすが降ってきた
 半年を過ぎた3月10日の朝に、天南寺の境内に黒い燃えかすが雪のように次から次へと降ってきました。訳も分からずこの不思議な現象を見ていましたが、夜になって「本所、深川が空襲にあって大変な事になった」と伝わってきました。
 空から降ってきた物の正体は、東京大空襲の燃えかすでした。それは、風に乗って遠く千葉まで運ばれてくるほど惨劇を極めた空襲だったのです。

Q東京大空襲でご家族を亡くされたそうですが。

母と妹とともに
(写真左が星野さん)

 その後間もなく、焼け出された家族が子どもたちを引き取りに来ました。 大店のお嬢様が家族全員を失い親類に引き取られていく様や、母親から妹の死を聞かされ泣き伏せる友を見ていたからでしょうか、次は私の番かもしれないと思っていました。
 生徒の半分が引き取られた頃、母方の伯父が私を迎えに来て、会うなり「お父ちゃんも、お母ちゃんも死んじゃったよ」と言われました。兄も生まれたばかりの妹も死んでしまったというのに、不思議と涙が出ません。今思えば非日常の世の中で、感覚が麻痺していたのではないでしょうか。大八車に乗せられて天南寺を去る時、級友がいつまでも手を振ってくれた事の方が目に焼き付いています。
 母は妹や弟を連れて郷里の千葉に疎開し、東京には父と旧制中学校に通う兄が残っていました。しかし父が体調を崩し入院するというので、母も赤ん坊をおぶって3月10日の数日前に上京し、そのまま帰らぬ人となったのです。運命とは不思議なものと思います。
 家族の遺体は、結局ひとつも見つけることは出来ませんでした。

Qその後の生活はどのような状況だったのですか。

 11才の私、8才の妹と4才の弟がこの世に残されて、この日を境に「戦争孤児」と呼ばれる辛い生活が始まりました。 最初は母の郷里である千葉県の親戚に引き取られたものの2ヶ月後には「子どもの養育は父方の義務」という理由で父の郷里新潟県の親戚に引き取られました。
そこは大黒柱の叔父が出兵し、3人の幼子を抱えた叔母と年老いた祖母が細々と農業をする貧しい生活で、お湯に僅かな米粒が浮く粥を飲み、お腹を空かせたまま粗末な藁布団で寝ていました。その上、祖母はきつい口調で私たちに当たり、その顔色で自分たちが「お荷物」「邪魔者」なのが痛いほど分かりました。
 とげとげしい空気の中で張りつめた思いのまま毎日を過ごし、あまりにも辛くて千葉の伯母に窮状を訴える手紙を書いたものの、下書きを祖母に見つけられて更に辛く当たられ、帰りたいという小さな望みも絶たれました。

Q特につらかった経験は何ですか。

 一晩だけという約束で、隣村に住む叔父が私たち3人を迎えにきました。険しい山を越えて叔父の家につくと、山のようなご馳走をふるまわれました。そして叔母から「今日からおまえ達はこの家の子になるんだ」と言われたのです。私はこの言葉に強い衝撃を受けました。
 そこには乳飲み子も含めて6、7人の子どもがいるのに、その上私たちを本当に育ててくれるのでしょうか?それならば、何故一晩だけと言って私たちを連れだしたのでしょうか?叔父と祖母の間でどんな取り決めがあったのでしょうか?不安は限りなく続き、心を苦しめました。
 今まで大人たちの都合で親戚を転々としてきたので「今度もまた知らない所へ連れて行かれるに違いない、そして姉弟はバラバラにされてしまうだろう」と思い、逃げる決意をして夜明け前にすきを見て妹と弟と叔父の家を出ました。
 辛くても戻る先は祖母の家しかありません。追っ手に追いつかれ連れ戻されたらどんな目に遭うかと、見知らぬ暗く深い山道を必死で走り続けました。
 8月というのにまだ雪の残る山頂まで走り抜け、湧水を飲んで安心したとたん堪えていた思いが一気に吹き上げてきました。家族を失っても泣かなかった私が「お父ちゃん、お母ちゃん、どうして私たちを残して死んじゃったのっ!」と止めどもなく涙が溢れてきます。妹も弟も一緒に泣き始め、今思い返してもこの時ほど惨めで辛い思いをしたことはありません。

山道を必死に逃げた

 山をさまよい歩き夕方やっと祖母の家に辿り着くと、戸を開けた祖母は捨てたはずの私たちが立っているので「何だ!おまえ達はっ!」と大声で怒鳴りました。
 しかし黙ってうなだれるだけの私たちを見て、逃げてきたと察した祖母は、その場に泣き崩れてしまいました。「さぁ上がれ」と家に入れて御飯を出してくれましたが、私は胸が詰まって何も食べられませんでした。
 怖かった祖母も本当は善人だったのですが、戦争の不条理が善人を悪人にさせてしまったののではないでしょうか。 伯父が復員した後に、私と妹は千葉の母方の親類に引き取られ育ちました。残された弟は、物心がつくまで伯父と伯母を両親と信じて育ちましたので、産みの親、実の姉がいるとわかった時はショックだったようです。
 戦後は、各地に孤児が溢れかえり、自分の力で生きてゆけない幼い子どもたちが悲しい体験を強いられました。現在も世界を見渡せば、毎日のように戦争によって孤児が増えています。 戦争は人の行為の中で、心を失う最も愚かなことではないでしょうか。

Q当時のことを絵と文でまとめられているそうですね。

孤児で溢れる両国駅

 両親の愛情に包まれて育った時代から、疎開や孤児の体験を経て成人していくまでを、一冊の絵日記にまとめています。戦争を知らない世代に対して私の体験を「残す」というより「伝えたい」と願っています。このノートは71ページありますが、まだまだ書き足らないのです。
 また、私を始め多くの人生に影を落とした東京大空襲が、あまりにも知られていない事に疑問を感じます。国は軍人や軍属の遺家族には補償を行いましたが、空襲による民間人の遺家族に対しては、空襲による死者は戦災横死者とされ援護法がないという理由でそっぽをむいてきました。2時間の間に市民が10万人殺害されたという事実はもっと問題視されて良いのではないでしょうか。
 また広島や長崎には平和記念館や大規模な式典がありますが、東京には出来ないのは何故でしょう。
 愚かな戦争を人類が二度と繰り返すことがないよう「伝える」事を続けていきたいと思います。

平成18年8月掲載記事
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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