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今でも当時の煉瓦塀が一部残っている |
大森---------
スタジアムが出来る以前の敷地は、もともと「ラシャ場」と呼ばれた官営の「千住製絨所」があった場所で、周囲を高くて頑丈な煉瓦塀が取り囲んでいました。
戦後は民間に払い下げられて「大和毛織」という毛織工場が営業していましたね。
工場への入口が反対側だったこともあって、出入り口の見えない高い煉瓦塀はどこか刑務所みたいな雰囲気でした。
そんな場所にプロ野球球場が出来るというので、地元にとっては突然降ってわいた驚きの話でした。
青木---------
昭和30年の野球人気は今の比じゃないですからね。それまで野球観戦といえば、セ・リーグ中心で後楽園球場だったのが、人気では相当の格差のあったパ・リーグとはいえ、目と鼻の先に球場ができるというので本当に驚きだったよね。
大森---------
工事の着手から完成までがたったの1年ぐらいという超スピード工事は、スタジアムオーナーの大映株式会社、永田雅一社長の力が大きかったと思います。
永田オーナーは、東京球場で試合が開催される日は、ロールスロイスで必ず観戦に来ていましたね。
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東京スタジアム完成時の周辺地図 |
青木---------
外観はコンクリートの打ちっ放し、観客席に入るには4箇所ぐらいスロープがあって、今でいうバリアフリー設計。アメリカのサンフランシスコ・ジャイアンツの新球場「キャンドルスティック・パーク」を参考にしたらしいけど当時そんな建物は珍しかったよね。
スタジアムの中は広々していて、見晴らしが良いというより「丸見え」という感じだったなぁ。大きな照明も、カラフルな椅子もすべてが新鮮でしたね。
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下町に突如として現れた近代建築 |
大森--------
椅子の色は、たしか指定Aが赤で、指定Bが黄色、その他が青だったと思う。内野の芝生の緑がきれいでした。
東京では青山の次に出来たというボーリング場や、オフシーズンにはアイススケート場も併設されて、娯楽の殿堂というか非日常的な空間だったね。
大森---------
スタジアム建設に携わった竹中工務店に、祖父の戦友がいて店を贔屓にしてくれたのでものすごく忙しくなりました。現場では、若い現場監督達を競わせて突貫工事で仕事のピッチを上げていたんですね。夜中も、よく夜食を届けに行きましたよ。
試合のある日は、ベンチまで出前を届けに行きました。肩に何段もザルを重ねて自転車に乗っていると外人客がめずらしがってね。曲芸と思ったのかな。(笑)
球場の売店は値段が高いというので、店の前で牛乳を販売したら飛ぶように売れました。牛乳を買う長い行列が出来て大変でした。
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千住間道からスタジアムをのぞむ |
青木---------
自動販売機のない時代で、容器といえばガラス瓶に紙蓋ですからね、次々にコーヒー牛乳やリンゴジュースの蓋を取るうち手が痛くなるほどでね。お客さんの大半がうちの店の前を通ってスタジアムへ向かうので「置いてあるものは何でも売れた!」という感じでしたよ。(笑)
特に、巨人戦、日本シリーズ、オールスターの時は、お客さんがひっきりなしにやってきて、「学校から早く帰って来い」と言われて手伝わされました。当時は子どもが家業を手伝うのは当たり前だったからね。
でも雨が降って試合が中止になると大量に売れ残るでしょ。あの頃はスタジアムと商売と生活が繋がっていましたね。
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ホームランが出やすい球場だった |
大森---------
東京球場は、他の球場より外野が狭くて場外ホームランが出やすかったんです。試合中、道ばたで子どもたちがグローブを構えて、ボールが飛んでくるのを待っていましたね。(笑)当時は硬球なんて珍しかったからキャッチした子はちょっとしたヒーローでした。
青木---------
タダ券もかなり出回っていましたが、試合も後半戦になると、チケットが無くても行けば入れてくれました。
大森---------
スタンドにスイカを持ち込んでスイカ割りしてる人もいたし、子どもたちは内野と外野の間で鬼ごっこをしてたね。
球場のすぐ傍に住んでいた鳶の頭が、私設応援団長でね、鳶の出で立ちで纏(まとい)を持って応援に来ていた。観客の飛ばすヤジも、いかにも下町って感じで、それを聞いて転げ回って笑ってる人とかいて…。そういうのを観てるのも面白かったですよ。
青木---------
南千住駅のホームから見る夜の東京球場は最高でしたよ。高い建物がなく低く暗い下町の屋根が続く中で、スタジアムの光が空に向かって「うわぁっ」と明るく輝いているんです。その眺めは今も忘れられないね。
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光の球場」と呼ばれた東京スタジアム |
大森---------
「光の球場」って言われてたもんね。試合が終わって照明が消えると、そこに集まってた虫が、いっせいに民家の灯りに群がるんだよね。それで球場の近所の家々は大変だったんだよ、ほんとに(笑)。
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下町の味をささえる「青木屋」 |
青木---------
電車で通って南千住駅から歩いて通う選手が多かったから、選手は町中で見かける身近な存在でしたね。
試合後には、うちの店でアイスクリームを買って帰っていったり、今では考えられないほど庶民的な感じで。
そういえば、アルトマン選手は背が高かったね!
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蕎麦以外のメニューも豊富「おおもり」 |
大森---------
青木屋さんでコッペパンを買って、うちでたぬき蕎麦を食べて行くんだよね。
たぬき蕎麦を食べて試合に出たら、ホームラン2本打ったことがあって、それからはたぬき蕎麦ばかりでしたね。
石黒選手が頼むものもいつも同じで「石黒定食」と呼んでいました。榎本選手は目が合った時しか注文しないとか、選手ごとに癖がありましたね。
大森---------
オレ達の背番号3番は長嶋じゃなくて、榎本だよ。地元ではロッテファンは今も多いと思いますよ。やっぱり気になるんですよね。
青木---------
スタジアムの思い出を語れるのは私たちの世代までだけど、地元の少年野球チームに「オリオンズ」っていう名前が今も残っているよね。
青木---------
交通の便が良くなってるから、お客さんも結構来るんじゃないかな。球場があるっていうだけで、賑やかでいいね。今でも、年配のタクシー運転手なら「東京球場」と言えばここまで連れて来てくれます。
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現在の荒川スポーツセンター |
大森---------
ホームランの出やすい球場だから、お客さん喜ぶんじゃない?
残ってたら、面白かっただろうなあ。
選手や観客の胃袋を支えたのは下町のボリューム満点アイテムでした。東京スタジアムは無くなってしまいましたが、その味は今も変わらず味わうことが出来ます。
『おおもり』
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おすすめのメニュー!!
巨大海老天は、お客さんをビックリさせたいと2本の海老を合体させたもの。たっぷりの胡麻が混ざった韃靼そばには、すずしろが山盛トッピング。付け汁は蕎麦つゆのほかに、茄子や葱がたっぷり入ったアツアツの田舎汁の2種類。さまざまな味が楽しめて栄養も満点の嬉しいお蕎麦です。 |
住 所 : 南千住6−26−12
電話番号 : 03−3891−2553 |
『青木屋』
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おすすめのメニュー!!
北海道産のジャガイモを使用した大きなコロッケがまるごと2個も入っています。あまくて柔らかいパンの大きさは20センチ以上。
揚げたてのコロッケを鋏んでアツアツを食べるもよし、冷めてしっとりとパンに馴染んだ所を食べるもよし。
クセになる下町の味です。 |
住 所 : 南千住6−47−14
電話番号 : 03−3807−4517
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この碑は、官営工場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるもので、荒川スポーツセンターの横に建っています。
省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得しました。明治十二年の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、同十九年に四十二歳の若さで死去。
同二十一年に製絨所の職員・職工の有志が、省三の偉業をしのびこの碑を建立しました。