荒川区発祥の品々を紹介する「生まれも育ちも荒川区」。
今回は「元祖植田のあんこ玉」です。
あんこ玉づくり一筋の植田義昭さんにお話を伺いました。
元祖植田のあんこ玉の製造過程はこちらをクリック!


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東京和生菓子商工業協同組合員でもある |
私の親父は、大きな菓子問屋で番頭をしていましたが、もともと手先が器用で、作るお菓子は菓子博覧会で入賞する程の腕があったそうです。
そのうち現場で菓子作りをしたくなったのでしょう。それまで勤めていた菓子問屋から職人を付けてもらい独立して植田製菓工場を始めました。
得意にしていた羊羹(ようかん)を当時流行しはじめた「当て物(くじ付きの菓子)」に加工して、蔵前の問屋街で知り合いの問屋仲間を相手に営業をしたそうですが、はじめは付き合いで買ってくれても追加注文がさっぱり来ないという有り様だったとか。
売れ残った羊羹をそのまま腐らせるわけにもいかず、煮直したところ山のような餡(あん)が出来てしまいました(笑)。これをお金に変えないことには商売にならないからと、苦肉の策で餡をコロコロ転がし丸めてからきな粉を付けたのが「あんこ玉」の始まりです。

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手際良く次から次へと箱詰めしていく女性達。「そりゃ見事なもんだよ」と植田さん。 |
問屋仲間は創作菓子の「あんこ玉」には飛びつかず、様子見で注文は全くとれなかったそうです。親父は仕方なくこれを自転車に積んで、近所の駄菓子屋に直接販売したところ思いのほか評判が良く完売しました。
手応えを感じた親父は再度、問屋に50箱の「あんこ玉」を持ち込みました。そこにたまたま買い付けに来ていた顔見知りの2軒の駄菓子屋が「あんこ玉」を全部買ってくれた事が、問屋仲間への大きな宣伝効果になり、翌日から注文が100箱、200箱と倍増していきました。
作れば売れる「あんこ玉」も親父が戦争に出征した時期は製造が出来ず、工場も空襲で焼かれてしまいました。配給の砂糖が溶けてべっ甲飴のように固まった所に、大勢の人が群がって鉄製のカギがついた「とび口」で割って食べていた光景を今も憶えています。
戦後はすぐに商売を再開し、一番忙しかった頃は、中箱を1日2800箱出荷していました。あんこ玉を転がした長台の左右に15人ずつ並んで箱詰めに大忙しでしたよ。

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炒り大豆の香ばしい香りが鼻をくずぐる特製きな粉は、褐色の色が見た目にも美しい。 |
私たちのきな粉は、大豆を炒り豆屋さんに持ち込み、炒ってもらった豆をこの工場内で挽いています。この自慢のきな粉は、銀座にのれんをかまえる有名な和菓子屋からも注文があるんです。駄菓子の「あんこ玉」と高級和菓子のきな粉が同じというのも変な話ですが、それだけ品質が認められていると自負しています。
市販のきな粉は、炒らずに熱風で乾燥させた豆を使うので、独特の香ばしさが出ませんね。豆を載せた畳2枚分もの金網を、昔ながらの方法でガッチャンガッチャンと揺すりながら炒る様は壮観ですよ。豆選びから炒り加減、挽き加減、全てが私たち独自のものです。

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小豆を炊きあげる圧力器は40年近く大切に使用しています。 |
餡は日持ちが効かないし、きな粉をつけると直ぐにカビが生えてきます。しかし私たちの餡には秘密が有り無添加にも関わらず餡だけなら3ヶ月間も風味が変わりません。きな粉をつけた「あんこ玉」でも2週間は大丈夫です。
その秘密とは親父が考え出した「火と割」で、火力、餡、砂糖、水飴の割合が商品寿命に影響しています。
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無添加で3ヶ月間も風味が変わらない餡。 |
今のように保存料が無かった時代のこと、同業者が酔った親父からこの「火と割」聞き出そうと宴席を重ねたそうですが、酒に強かった親父は逆に相手を酔いつぶしたそうです(笑)。
現在はこの餡作りを息子が担当していますが、季節や天気で煮加減が変わるので毎日が難しい仕事ですよ。
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あんこづくりから配達まで大忙しの息子さんと植田さん。親から子へそして孫へ。「元祖植田のあんこ玉」の味はしっかり受け継がれている。 |

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平成18年に区民公募で選定した「荒川のおすすめ品」にも選ばれました。まさに下町荒川区の味! |
貼り箱の商標デザインや文字は全て親父が考えたものです。内容表示などは入りましたが、昔のままのデザインです。(小箱35個入り、中箱50個入り、大箱70個入り)
出荷時には小箱は輪ゴムで留めていますが、大箱、中箱は昔からのやり方で綿の糸で結わえています。
昔ながらの手間がかかる仕事でも、良いものは残していきたいし若い人にも継いでいってほしいですね。