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玉川さんと義母ツルさん 大正末期、巡業先の写真館にて |
子どもが売り買いされるなんて、今の人たちには考えられないことでしょうね。私は戸籍ごと売られたり買われたりして14歳までに13回親が変わりました。
最初は3歳の時に、実の親から女流歌舞伎一座の支配人へ27円で買われました。当時の27円といえば、二階建ての総檜造りの家を建てられる価値がありました。
その日のうちに今度は30円で一座の太夫元である地紙家賢三郎氏に買われ、今日に至る私の流転人生が始まりました。当時の東北は今では考えられないほど生活が貧しく子売りも苦渋の選択だったと思います。まさにテレビドラマ「おしん」の世界があったのです。

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姿石を祀る「しあわせ観音」 |
地紙の父母は人間のできた人で、血の繋がっていない子どもたちを我が子のように大きく深い愛情で育ててくれました。芸事はもちろん、礼儀作法、家事全般にいたるまで、将来一人になっても困らぬようにと躾けたのです。
地紙の父母に限らず、13人もの「親」がいました。様々な親との出会いと別れが、私の芸域を広げてくれました。身寄りのない私が、自力で看板を築くことが出来たのも13人の親のおかげと思い、地紙の父にゆかりがある身延山近くの妙久寺に供養塔を建て、自然石の観音様の姿石を百体祀り感謝の手を合わせています。


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女中奉公をしていた頃の玉川さん |
最初の女流歌舞伎では、旅から旅への一座ですから、北は北海道から南は九州まで、お客さんがいると聞けば樺太や、オーストラリアやアラスカまで巡業に行きました。
地紙の父が亡くなってからは、一座も解散。残された義母と私で不況時代を生きて行かなくてはいけません。私は小樽の劇場の支配人の世話で、芸名を「地紙家澄子」と改め、わずか7歳で「お初地蔵劇団」の座長となりました。わずかな団員の小さな劇団ですが、日本初のバラバラ殺人事件を題材にしたこの興業は成功をし日夜大入りでした。
ところが、劇団員が博打に手を出し、衣裳から道具まで全部質屋に預ける品物になってしまい芝居ができなくなってしまったのです。
私は、自分の羽織を持って質屋へ行き50銭貸してもらいました。そのお金は、米、炭、ネギ、味噌、団員の風呂代に消えました。翌日はまた一文無しです。
「私を買って」と、下駄屋、せんべい屋、チンドン屋、挙げ句の果てにはサーカスのブランコの跳び乗りまでやって稼ぎました。散髪屋では朝から晩まで何十枚ものタオルを洗って日銭を稼いだんです。
あの頃は、そうやって子どもでも仕事をしたし、仕事をさせてくれる世の中でした。今のこの豊かな日本じゃにわかには信じられないでしょうけれど、これはぜんぶ本当の話なんですよ。
見かねて助け舟を出してくれる人、人の稼ぎを持っていってしまう人、子どもの頃から人生の悲喜交々をさんざん味わってきましたね。


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初恋の頃の玉川さん |
芸能生活では良いご縁をいただいたのですが、私生活は残念ながらあんまり恵まれていたとはいえません。思い返せば13歳の時に大湊で海軍士官さんとの間に芽生えた恋は、純真純愛でしたが、彼の家の事情で突然別れを告げられた時は、巡業先の樺太で自殺しようと海に飛び込んだりもしました。せつない思い出のひとこまです。
今でもお化粧をしようと鏡の前にたつと、実父とこの士官さんの面影が胸によぎるんです。
不思議なものですね。

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浅草演芸ホールでの舞台 |
青森県の民謡一座「津軽家すわ子一座」にいたときは、民謡ばかりでは飽きたらず桂喜代楽さんから漫才のイロハを教わりました。それが縁で三代目春風亭柳好師匠から「桂小豆」の名を許されました。
「花奴レビュー団」では「丘乃すみれ」の名でレビュー歌手をしたり、「シゲオ・小豆」のコンビ漫才を組んだり、その後「東家女楽燕」の名で浪曲師になったりなど様々な経験をしましたが、昭和33年に一人で演じる三味線漫談を始め、昭和35年から今の「玉川スミ」を名乗り始めました。
見様見真似で身に付けてきた芸の道ですが、そこにいつも素晴らしい先達がいてくださって、本当に恵まれました。決して楽な道ではありませんでしたが「芸は身を助ける」というのは本当だと思います。

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勲五等宝冠章授賞の頃 |
実は私、子どもの頃から霊感が強くて、不思議な体験をいろいろとしてきました。どうも見えない方々に頼られるらしくて(笑)。そのような経験が信心深くもさせたのでしょうが、弘法大師様の、人のために尽くされた人生を知った時に「そこまでさせるものって何なんだろう」と関心を抱いたのです。弘法大師様は6歳で得度されましたが、少しでもこの方に近づきたいという思いで平成3年3月3日に宮崎県延岡市の今山大師で得度しました。法名は「澄光尼」といいます。同年に「勲五等宝冠賞」というたいへんな名誉もいただきました。神仏のご縁にありがたい気持ちでいっぱいです。


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荒川の地蔵堀の石地蔵様 |
様々な所に暮らしましたが、荒川区に越してからはもう15年になります。ここが終の住処になるでしょうね。荒川区で死に水とるからよろしくね(笑)。
寄席がある上野や浅草にも近いし便利ですね。昔から日暮里のこの辺りは地の利が良いこともあって芸人が多く住んでいたんですよ。大正年間・昭和戦前までの上野・浅草は今の比じゃないくらい芝居小屋や寄席が並んで大変賑やかで活気がありましたからね。お呼びがかかったときにパッと行ける距離が重宝したのね。
荒川区とのご縁といえば、荒川警察署の隣りの地蔵堀の石地蔵様は今では立派にお祀りされているけど、私が目にしたときは哀れなご様子で、10年くらい御世話させていただきました。今でも、毎月一度は、欠かさずにお参りに行っていますよ。荒川警察署は、私といろいろご縁も深く今でも「全国交通安全週間」などいろいろな催しでお付き合いさせていただいています。荒川警察署は、私の身元引受人ですから悪いことはできませんよ(笑)。また、荒川区から表彰されたりしましたね。これからも荒川区のためにできることはさせていただきます。

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浅草演芸ホール |
芸事は実に奥の深いものです。今でも舞台に立つ前は、緊張で足が震えます。そこにいらっしゃるお客様お一人おひとりが大事なんです。その場にあった工夫と味付け。それが勉強であり、その積み重ねが芸を磨いてくれるんだと思います。
来年は数え年88歳になるのと同時に芸能生活85周年を迎えます。その記念舞台を元気にやり遂げたい。その目標に向けて毎日舞台に立っています。
すべての芸の勝負は舞台だ、という気構えしか芸人を支えるものはないようです。だから芸人は、この世界から足を洗うまで勉強しなければいけないということでしょう。お客さんに老醜を感じさせないよう若さも保たなければならないし、考えてみれば因果な商売です。
生きている間は勉強、勉強、死ぬまで勉強と思っています。これはなにも芸の世界だけのことではないでしょう。とにかく、人間、死ぬまで何かしら勉強し続けなければならないようです。私の舞台でのセリフではありませんが「休むのは、死んでからゆっくり」ということで……。
そうそうそれから「言うこと聞かなきゃブツよー!」。


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玉川さんを囲んで 左:小文治師匠 右:圓馬師匠 |

「功徳のおスミ」とお呼びしたい、ほんとに苦労された師匠です。お姉(ねえ)さんというより「姉(あね)さん」。気が短くて威勢がいい。話せばずばっと真理をついてくる。昔の江戸のオカミさんっていうのは、きっとこんな女性だったんじゃないでしょうかね。

まったく年をとられません。いや逆に若くなってる(笑)。いくつになっても色気があるんですよね。芸能界の重鎮でありながら表に出ない謙虚さ。芸能界の宝、人間国宝になってもいい方だと思います。どなたかに師匠のドキュメンタリーを撮っていただきたいですね。