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大正10年 日暮里駅周辺。
現在も日暮里に残る家は赤丸がつけてある。
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日暮里の変遷
私は今年で、84歳になりますが、戦争に行っていた3年以外は日暮里を離れたことがありません。父の話では昔の日暮里は、今は暗渠の音無川から用水を引き、田畑がひろがっていたそうです。タヌキが里まで下りてきたという呑気な時代でしたね。
私が生まれた大正10年には、様々な商店が集まり随分とひらけてきました(右図参照)。その当時我家の前は商店街で、駅までの道も左右に別れ、今とは全く違う区画でした。
日暮里撮影所跡の赤い煉瓦塀が、ダーッと続いていたのも幼い記憶に残るところです。
21歳で戦争に行きましたが、戻ってみると駅前の自転車屋がポツンと残っているだけで見渡す限り焼け野原でしたね。
駄菓子問屋街のはじまり
戦後間もなく駅前にバラックが建ちはじめました。丸太を交互に組み、両側に米櫃をならべて、その中に飴や饅頭などの闇物資を売っていました。闇のものを売っていたので私は闇市と呼んでいました。
今では想像がつかないでしょうが、汽車のように店舗が長く連なった「ぽっぽ長屋」や「ハーモニカ長屋」が並び、大変な賑わいでした。
兄の薦めで
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大きく頑丈な両手。この手で多くの仕事をこなしてきた。
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私は戦前から某電気会社の職工として働いていましたが、昭和21(1946)年から金融緊急措置令、いわゆる500円封鎖が始まり、給料も500円以上は強制的に預金にまわされてしまう状況でした。働いても給料に限りがあるならと、兄の勧めもあって鳶職に鞍替えしました。
兄はもともと鳶職人でした。戦後に鳶の親分が亡くなられてその事業所を継ぎました。当時は建設ラッシュで目もまわる忙しさで、仕事は兄や先輩から、現場で学びました。兄に「鳶職も分業化しているが、われわれ町鳶はあれが出来てこれが出来ないというのでは一人前とはいえない」と良く言われました。鳶の仕事はなんでもこなすというのが基本という事です。鳶職人を仕事師屋と呼ぶのもそういう由縁かもしれません。
鳶の仕事
穴を掘る基礎工事から、杭やコンクリートを打って鉄筋を組んだり足場を掛けたりするのは全て鳶の仕事です。
またお正月の松や笹の準備、祭での木遣り唄や警備、御神酒所や矢倉を組むなど町の仕事も務めます。現在、諏方神社の御輿の巡幸は1日ですが、以前は日暮里2日、谷中1日の計3日を全て御輿を担いでの巡幸でした。夜間に御神輿を納める「おかりや」では、交代で寝ずの番をしたものです。
穴を掘る仕事柄、口の悪い者に「どぶさらい」と言われたこともありますが、昔から鳶職は町火消しも務める誇り高い仕事でした。そして、町の相談役として、多くの人々が訪れています。
役職と半纏
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江戸安政6(1858)年の木版画。「れ組」の纏と鯔背な鳶姿が描かれている。 |
町火消しは、享保3(1713)年、江戸南町奉行大岡越前守忠相が町人のための本格的な消防組織「いろは四十八組」をつくったのが始まりです。私が組頭を務める「れ組」もこの四十八組に名を連ねます。
「れ組」の纏は「丸に剣大」といわれ、厚い丸の中に剣のように先のとがった大の文字です。これも歴史のあるもので江戸時代の木版画に既に登場しています。
「組頭」「副組頭」「小頭」「筒先」「道具持ち」の順で、役半纏と言われるように、その役によって半纏のデザインが違います。組頭から小頭までが3役で、肩に赤い筋が入っているので赤筋とも呼ばれます。われわれにとってはこれが正装ですから、もろ肌に役半纏をひっかけて、天皇陛下の前に出ていっても恥ずかしくないんです。今でも腹掛けして半纏を引っかけると「粋だね」といわれますよ。たまに背広で出掛けようものなら反対に「どうしたの」といぶかしがられますね。
筋めを通す
職人の世界では何処も共通でしょうが、上下の厳しい世界です。例えば会合に出ても、半纏1枚違えば席次が違います。同じ役の中でも、務めの長い人は上座へ、短い人は下座と決まっています。これは年配者を敬い、自らの分を知るということです。
若い衆の世話をしている女房が「半纏をきたらあの子はキチンとしたわね。」と良く言いますが、形から入るというのもひとつの作法ですし、その道に入れば、聞かないでも教えられる事がいろいろあります。
私が口うるさく言わなくても、下の者が教えていくんですね。また組の者が祝儀一つ持って行くにも、私の許可がなくては出来ません。そういう意味で、縦の筋がきっちりと通っています。
正月を迎える準備
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門松を作るのは師走の風景。恋女房「ヨネさん」と。 |
師走も15日を過ぎれば、この作業場で門松作りがはじまります。竹に縄を上3本、下5本ゆわくのですが、この時は女房も手伝って「お父さん左右の高さが違うわよ。1センチあげてっ。さげてっ。」と賑やかに作業します。今は数が減りましたが、一番最初に納める羽二重団子さんをはじめ、毎年7〜8箇所受けています。以前は夜間に玄関にたてる笹を大型トラックが一杯になるほど運び、軒並み飾りましたが、交通上危険という理由で廃止になってしまったのが残念です。1年にたった1回のことだから諦めろと説得されましたが、「じゃあ、クリスマスも止めさせろ」なんて悪態をついて反対しました。お祭りの時には、玄関に提灯を結わく木を手配するのもわれわれの仕事ですが、多いときで700件あったのが、今年は120件程に減ってしまいました。一戸建ての家がビルに建て替るのを見ていると、段々と伝統が薄れていくようでさみしいですね。
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ひぐらし小学校前の「ひぐらし小学校あいさつ通り」にて。
自らがモデルをつとめた氣志團のポスターを手に。 |
あいさつの出来る子どもを増やす
自宅前が通学路ですが、道幅が狭く子ども達が事故に遭わないか心配でした。それで、5年前程から見守りを兼ねて、女房と共に毎朝玄関前であいさつをはじめました。女房は「おはよう」と言われると「おはようございます」と子どもにも拝んでいました。今は体調を崩して入院中ですが、姿が見えないので心配して声をかけてくれる人もいます。
大人にも責任はあるのでしょうが、最近の子どもは「おはよう」は言えても「さようなら」「ありがとう」が言えないですね。これからも挨拶運動を続けて、自然に挨拶が交わせる元気な子どもを育成したいですね。
人を活かす方法
最近いろんな事件、事故が多く不安に思っている人も多いと思います。どのように子どもを育てるか、若い人に接するか悩むことがあるようです。私の経験では、人は「役」を与えて活きるものだと考えます。例えば、御輿を担ぐ子は町会の用も自然にやってくれます。「役」に対する責任が人を動かし、結果として「役」に応えた事になるのです。
また「役」を与える人も投げっぱなしではいけません。指図する人がしっかりしていないと、何処かがおろそかになるものです。それぞれの信頼関係がとても重要だと思います。
※取材記事は平成17年12月現在のものです。