荒川ゆうネットアーカイブ
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観光ルート

コラム
音無川と日本堤
音無川は王子で石神井川からわかれている。その清流は田端・日暮里・金杉を流れ、ここから山谷掘をへて隅田川にそそぐ。今は暗渠【あんきょ】になっているが、明治のおわりまでは灌漑用水として使われていた。
音無川にそって、三ノ輪から聖天【しょうでん】町(現浅草7丁目)まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。新吉原への遊客でにぎわった堤も今はない。
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大名屋敷跡
石川屋敷跡(いしかわやしきあと)
石川屋敷跡(いしかわやしきあと) 伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、三の輪一帯(現在のジョイフル三の輪)あたりにあって、総坪数11040坪(約36400m2)にも及ぶ広さであった。万治元年(1658)、主殿頭憲之の時に、三河島・三ノ輪・小塚原3か村のうち10530坪(約34700m2)の地を拝領し下屋敷を増築。寛文5年(1665)、三河島村重右衛門の所有地518坪(約1700平方m2)を買上げ、屋敷・庭園を増築した。
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宗屋敷跡(そうやしきあと)
宗屋敷跡(そうやしきあと) 対馬藩主の宗対馬守下屋敷は、寛文元年(1661)に幕府から拝領した。面積7800坪(約25600m2)。都電荒川線を北限とし、南は明治通り、東は日光街道より1本西側の道、西は南千住1丁目9番あたりが屋敷の範囲と推定される。この屋敷の東南の角に、辻番屋があった。武家屋敷近辺の取締りのために設けられたものである。
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大関屋敷(おおぜきやしき)と大関横町(おおぜきよこちょう)
大関屋敷(おおぜきやしき)と大関横町(おおぜきよこちょう) 下野(栃木県)黒羽藩主大関氏は、寛文元年(1661)幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その範囲は、南千住1丁目1〜8番、10・11番の1部のあたりと推定される。
面積は、抱屋敷【かかえやしき】を含めて8100坪(約27000m2)であった。黒羽藩27代増業は、膨大な図書の編纂と、藩政改革で知られる。文政7年(1824)の隠居後、この下屋敷に閑居した。
大関横町は、この屋敷を中心に(南千住1丁目1〜8番付近)南と西を取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予(愛媛県)新谷藩主加藤出雲守屋敷(荒川1丁目36〜38番付近)があった。
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加藤屋敷跡(かとうやしきあと)
加藤屋敷跡(かとうやしきあと) 三河島村には、伊予国(愛媛県)新谷【にいや】藩主であった加藤氏の下屋敷【しもやしき】があった。元禄11年(1698)、2代泰觚【やすかど】のとき、下屋敷2153坪(約7100m2)を拝領したものである。大関氏の屋敷の北西、現在の荒川1丁目36〜38番地あたりと推定される。維新後明治政府によって屋敷は上地となり加藤氏はこの地を去ったが、三河島町大字【おおあざ】三ノ輪字【あざ】加藤という地名が昭和7年(1932)の荒川区制施行まで残っていた。
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池田屋敷跡(いけだやしきあと)
池田屋敷跡(いけだやしきあと) 旗本3000石池田播磨守下屋敷は明治通りの南側で、北の宗対馬守下屋敷に対していた。池田屋敷は寛文元年(1661)に拝領し、以後幕末維新まであった。
屋敷地は4901坪(約16200m2)で、別に抱屋敷【かかえやしき】2100坪(約7000m2)を有していた。
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米倉屋敷跡(よねくらやしきあと)
米倉屋敷跡(よねくらやしきあと) 宝永4年(1707)、当時下野【しもつけ】国(栃木県)皆川藩主であった米倉主計昌照が、この地に下屋敷を拝領した。享保16年(1731)、屋敷の北側部分が相対替えで、旗本屋代氏の所有に移り、残りの南側部分も、翌17年に上知(幕府が屋敷地を収公すること)となり、米倉氏はこの地を去った。
北側部分は、さらに土屋氏・池田氏・曲淵氏の屋敷地となるが、現在でも、この天王公園のあたりは、土地の人々から「米倉屋敷」と呼ばれ、親しまれている。
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