荒川ゆうネットアーカイブ
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歴史探訪 荒川区の歴史
このページでは、荒川区の歴史や各地区のあらましを紹介しています。
情報提供協力:荒川区教育委員会・荒川ふるさと文化館
荒川荒川区教育委員会発行「あらかわ史跡・文化財マップ」より
荒川ふるさと文化館常設展示「あらかわ史跡・文化財データけんさく」より
荒川の由来
荒川の由来

 町屋さんの言葉(「文化館だより」8号地名のつぶやき○3)を気にしつつ誰かに語りかけるように ここは、苦い思い出の場所です。誇り高き一族の地名【なまえ】を全国に広め、そして傷つけた三河島事故が起きた所ですから。「おまえは、尚且つそこに生きているんだろう」っていうんですか。なんとなく納得できないでいるんですよ。良い思い出、悪い思い出はあれど、歴史を重ねた地名【なまえ】を捨てなければならなかったことをね。

 ご先祖さまが、いつからここにいるのかは、知りません。でも、分身である小字の「釜が坪」「一の坪」は古代の条里制の名残だというお方がいるんです※1。それから古代の地名「白方」を「はかた」と読んで、これが荒川町屋地区の小学校名に使われる「峡田【はけた】」になったなどとおっしゃる先生も※2。当事者である私にはなんのことやら難しくてトンとわかりませんがね。

 地名【なまえ】の由来と歳【とし】ですか。「徳川家康関東入部の折に三河国から従ってきた人が知行したため三河島と呼ぶ」とか有名人にあやかったのがいくつかありますが、むかし中川・古利根川【ふるとねがわ】・荒川の三つの川に囲まれた島状の中州【なかす】だったから、という人本英太郎さんの説が一番気に入っているんです※3。今のところ410歳は優に越えているかと思います。戦国時代永禄2年(一五九三)に関東地方におられた皆さん【地名】とともに『北条氏所領役帳』に「三河ヶ島」と加えていただきました。誕生の記録はありませんので、「今のところ」と一言付け加えたのです。上野寛永寺様にお仕えしていた頃は豊かな農村で、冬には鶴や雁が飛んで来て鷹狩の将軍様ご一行をお迎えする、そんな時代もありました。元来、牧歌的な私には、その後にやって来た日本最初の下水処理場、近代的な火葬場、住宅の密集、区制の導入だの目まぐるしいことばかり。気付いたら「荒川」への改称が始まっていて昭和43年には何処【どこ】もかしこも「荒川」を名乗っていた。私の地名【なまえ】へのこだわりが結果として駅名や施設名に残されたのだと、せめて思いたいですよ。しかし、地名【なまえ】を元に戻せなどどと無粋なことはもういいますまい。数え35歳の「荒川」さんも歴史を作りつつあるのですからね。どうぞご安心を、「三河島八景」を飽かず眺めつつ、往きし日々を偲ぶことにします。

註※1荒川総合報告書2『荒川 人文I』(埼玉県)。『特別展 隅田川流域の古代・中世世界―水辺から見る江戸・東京前史―』(足立区立郷土博物館・すみだ郷土文化資料館・財団法人宮本記念財団)
※2『大日本地名辞書』(冨山房)
※3『三河島町郷土史』(『文化館*ブックス郷土史○1』)

(出典元:荒川ふるさと文化館だより第9号より)

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町屋の由来
町屋の由来

町屋‥唐突ですが、「町屋」という地名【なまえ】から何をイメージします?
‥‥やはり賑やかな町場ですかねぇ。
町屋‥それは、今の町屋のイメージでしょう。あの「地名のつぶやき」によく登場する『日本国語大辞典』さんも、「町の中にある家」「町方」などとおっしゃる。それに、早くから開けたところ、などとおっしゃる人もいる(明治10年『東京府村志』)。でも、「町屋」の私自身がどうもしっくりこないんですよね。
 私の名が世の中にお目見えするようになったのは、江戸時代の初めころなんですが、実は一族のみに口伝で伝えられてきたことがあるんです。ここだけの話、ちょっとご披露させていただきます。
 「今から千百余年前、坂上田村麻呂【さかのうえのたむらまろ】が奥州攻めに出向く折、従ってきた野武士が千住製絨所【せいじゅうしょ】(今の荒川工業高校)辺りに土着し一つの★町屋☆をなした。八幡太郎義家【はちまんたろうよしいえ】が荒川を渡る時に、舟で渡したのはここの住人で、若宮八幡(南千住六丁目)は鎮守であった。この土着した野武士が、町屋の遠祖で、南北朝末ころ現在の地に移った。この町屋からついた名前だ」(昭和7年『三河島町郷土史』)というのです。それでも、早くに町屋をなしたことが、由来となっています。いったい、私はどこからきたのでしょう。
‥‥ルーツですかァ。こんな話を聞いたことがありますよ。小塚原町名主のご親戚の加藤雀庵【かとうじゃくあん】さん、この方大変探究心の強いお方で、調べたことをいろいろと書き留めていらした。その一つ、『ちりづか』(四十四武蔵鑑)に、昔この辺りでは、野を「や」と呼んだ、と記していらっしゃる。そうすると、町屋の★や☆は、野の意味と考えられませんか。「★まち☆」は「まつち(真土)」が音便化したもので、つまり「マツチヤ→マッチヤ→マチヤ」となった、下町の人が、台東区の真土山を「マッチヤマ」と呼んでいるみたいに。
 ところで、その真土ですが、これは粘り気がある土の呼称です。真土山だけでなく、荒川区にも真土(旧三河島町の小字)という地名があります。粘性の高い土といえば、荒川下流域で採れる荒木田土【あらきだつち】。壁土や焼物用の土として重宝されていました。特に町屋の東部にある原に続く荒木田原【あらきだのはら】―三河島村(現町屋七丁目)、東叡山寛永寺の芝地だったところですが―ここから採れる土が良質であったため、ブランド名となり荒木田土の名称で呼ばれたらしいのです。恐らくは、荒木田土=真土であり、町屋も真土が採れる原、真土が広がる原との意味があったのではないでしょうか。
町屋‥それは大胆なお話ですね、なんだかこそばゆい感じがいたします。
‥‥いやいや、『町屋の民俗』(平成5年発行)という本の受け売りですよ。
町屋‥ところで、ここ町屋文化センターの場所ですがね。ここは、私たち「町屋」一族には、含まれない。お隣の「荒川」さん、つまり旧三河島字高畑にあたるんですよ。施設の名称が誤解を呼ぶなァ。
‥‥やけにこだわりますね。
町屋‥それはそうです。私たち一族は、明治11年に三河島と婚姻させられ、北豊島郡三河島村大字町屋になってしまいました。このときの屈辱たるや忘れられません。一族みんな反対したんだが、お上には逆らえず…。しかし、皮肉なものですねェ。昭和7年の区制導入で、また町屋は離別し、なんと昭和44年ころまでに三河島さんは「荒川」に改名することになったのですから。
 なぜ改名したかって?それは、三河島さんに聞いてくださいナ。それぞれの理由があって、案外今の名前が気に入っているかもしれませんよ。

〈出典元:荒川ふるさと文化館だより第8号より〉

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尾久の由来
尾久の由来

 場面某地名辞典の編纂【さん】委員会顔合わせで―
 アッ恐縮です「秋葉原さん」ですね。

―名刺を差し出しながら―
 失礼いたしました。私こういうものです。いえ、「尾久」と書いて、「おぐ」といいます。JRの尾久駅が「おく」だから、「おく」が正しいんじゃないかって。おっしゃいますねぇ。私のまわりには、東尾久【ひがしおぐ】とか、西尾久【にしおぐ】という名前の親類もいるんです。
 JRは元国鉄、国が決めたんだから、「おく」が正しいって。あなたねぇ、国の権威で、物事の是非を判断するっていうのは、いかがなものかな。
 私は、尾久駅が開設された昭和4年よりも、ずっと前から尾久を名乗ってきたんだから。えッ、それならいつ頃からかって。話せば長くなりますよ。

―尾久・秋葉原のみにスポット―
 我が家の言い伝えによれば、鎌倉幕府の歴史をつづった『吾妻鏡【あずまかがみ】』に「武蔵国豊嶋庄犬食名※1」と見えるのが、我が家の歴史の始まりだっていうんですよ。犬食は「いぬぐい」じゃないかって。無理もない話ですが、犬は大の書き間違いだというんです。犬食は「おおぐい」と読み、それが「おぐ」となった。やや強引とも言えなくもないですがね。それにね、昔は「小具」「越具」などの漢字を当てたこともある。たとえば、鎌倉末から室町時代のころは、我が家は、あの鎌倉の鶴岡八幡宮の社領になっていたようなんです。それを伝える、応永6年(一三九九)の関東管領【かんれい】上杉朝宗【ともむね】さんの文書があるんですが、ここには「武蔵国豊島郡小具郷内【ごうない】「江戸金曽木【かなそぎ】(彦欠カ)三郎跡)※2事」と書かれています。これを読んで、とんでもなく我が家は広かったんだなア、と驚きましたよ。どうも、今の尾久だけでなく、田端のお山の東側から、金杉―今でいえば東日暮里・台東区根岸あたりまであって、上野のお山に我が家の敷地を通って行けたってことです。
 どうも、没落したのかだんだん敷地も狭くなっていった様子。江戸時代の初めの頃までは、「尾久」本家のみだったのが、正保の検地(1644〜1648)のころまでに「上【かみ】尾久」「下【しも】尾久」「舟方【ふなかた】」に別れてしまいました。それぞれ独自の家風とでも申しましょうか―土地柄―を持ち、「上尾久」などは、花好きで、華蔵院【けぞういん】(東尾久8丁目)というお寺の西側に「佐治玄琳牡丹【さじげんりんぼたん】屋敷」や原【はら】公園(町屋5丁目)のあたりに見事な桜草の自生地を抱えていました。地味にも富んで、白魚【しらうお】・蜆【しじみ】などは絶品でした。「上尾久」「下尾久」は仲良く「峡田領【はけたりょう】」に属しましたが、「船方【ふなかた】」のみは、どうしたことか「岩淵領」。このあたりに後で「梶原堀之内」と縁組をする遠因があったんでしょうかね。明治22年には、荒川遊園西側の堀の所で分けられて、一部が王子村大字【おおあざ】船方(北区堀船)になってしまいましたよ。お上の都合で散り散りになってしまうのは、どんなにつらいことか。

―ハンカチを絞【しぼ】りつつ―
 ちなみに、私たち一族を結び付けている鎮守は西尾久3丁目の八幡様です。鎌倉時代の末ごろ、鶴岡八幡宮から分けていただいたようですから、我が家の歴史とは切っても切れない縁【えにし】があるのです。
 ところで、「秋葉原」さんはどちらの秋葉原さんで?ああ、あの電気街の。つかぬことをお聞きしますが「あきばはら」とお読みするのでは?ほほう、もとは火除地【ひよけち】で火伏【ひぶせ】の秋葉神社がまつられている原っぱだから「あきばっぱら」と呼ばれていたんですか。それが駅名になった時「あきはばら」となったなんて、何とも私と境遇が似ているではありませんか。

―秋葉原の手を取って―
 いやいや、尾久駅が当時の滝野川町(北区上中里2丁目)に造られたことなどは、ここではおいておきましょう。大事なのは、私たちの名前です。私のこの悩みに共感し駅名改称運動をしてくれている人達もいるんですよ。ともに、闘いましょう、私たちの名前が子々孫々へと伝わるように。
―舞台が明るくなる。辞典編纂委員長の明るい声―
 「いや〜、そちらのお二人さん、地名談義に花が咲いていますな。漏れ聞くに、なかなか示唆に富んだご意見。この地名辞典では「おぐ」「おく」両方で、項目を立てましょう。「おく」も既に70年の歴史があるのですから。

注※1 仁治2年(一二四一)4月25日条。
※2 応永6年11月12日付上杉禅助(朝宗)施行状(『北区史 資料編古代中世1』90号文書)。
※地紋は尾久町のマーク

〈出典元:荒川ふるさと文化館だより第7号より〉

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日暮里の由来
日暮里の由来

 私は「日暮里【にっぽり】」と申します。「日・暮・里」と書いて「にっぽり」と読みます。今何歳かと聞かれましても、もうとんと前のことで…。覚えておりますのは小田原の北条様の家臣遠山弥九郎【とうやまやくろう】様がこの辺を治めていたころでしょうか、『北条家所領役帳【ほうじょうけしょりょうやくちょう】』(永禄2年〈一五五九〉)という帳簿に私が「新堀【にっぽり】」と出ていますから、450歳くらいにはなっているのでしょうか。どうも、弥九郎様のお屋敷があって、新しく土塁【どるい】を築き堀をめぐらしたことで、こんな名前が付けられたとか(『新編武蔵風土記稿【しんぺんむさしふうどきこう】』)。

 あっ、いえいえ室町時代の文安5年(一四四八)の「熊野神領豊嶋年貢目録【くまのじんりょうとしまねんぐもくろく】」に「につぽり妙円」ともでてきますので、―〈しみじみと〉私も、もう500歳を越えましたか(『熊野那智大社文書【くまのなちたいしゃもんじょ】』第一 米良【めら】文書一)。

 長年生きていますと、辛いこともございます。先年少々ショックなことを耳にしました。中国からの留学生の言葉です。―「日暮という字は、太陽が沈むという意味を持つあまり縁起のよい字ではない。なぜそのような字を地名に使っているのか?」何しろ六千年の歴史のある、漢字の本家本元からこられた方の言葉ですから。中国ではそうなんでしょうね。そりゃ傷つきましたよ。日暮里といえば谷中に続く西日暮里三丁目の寺町、つまり私の“顔”ですが、ここらへんに私の名前の由来があるんじゃないかと思ってるんです。

 私が生まれていないころの話になりますが、奈良時代の歴史を綴【つづ】った『続日本紀【しょくくにほんぎ】』という本なんか見てましてもね、「好【よ】き字を着【つ】けよ」(和銅6年〈七一二〉5月2日条、『風土記【ふどき】』の編集の命令)とあって、当時のお上は地名には良い意味の漢字をあてよ、なんて命令を出しているんですよ。ですから決して縁起が悪い字ではないと思うんですよ。あの日光の陽明門だって「日暮しの門」ていわれているじゃないですか。日の暮れるのも忘れて見とれるような美しい門という意味ですよ。

 えっ、いつごろから「日暮里」の字をあてるようになったかですか?うーん記億をたどると、どうも江戸時代の中頃だったような気がします。最初は「あだな」みたいなもので、「日暮しの里」なんて呼ばれていました。自分で言うのも何ですが、私の“顔”であるところの―西日暮里三丁目は、季節ごとにおりおりの表情を持つといわれ、雪月花を楽しむ・観光見物人が押し寄せて来て、私も思わず頬を赤らめたものでした。諏訪台の西側に妙隆寺(西日暮里三丁目一〇八〇番地付近、近代に修性院と合併)というお寺さんがありましてね、寛延元年(一七四八)ごろ、御住職が境内にサクラやツツジを植え、見事な庭を作り上げました。元祖“花見寺”です。ここが評判となり、近所のお寺さんも競って庭をしつらえるようになりましてね、日暮里の山が一つの庭園のようでしたよ。文学(漢詩)好きでグルメの大工柏木如亭【かしわぎじょてい】さんとか、お役人でありながら、狂歌・洒落本などに手を染めている太田南畝【おおたなんぽ】さんなんかが、度々足を運んでくだすって、ほうぼうで宣伝してくれたもんです。そのころでしょう。「にっぽり」の音に「日・暮・里」をあて、だれともなく「日暮しの里」と呼ぶようになったのは。

 正式にはどのような字が正しいかって?私にも、よくわかりませんよ。江戸時代の公とされる文書や記録では「新堀」の字を使っていますがね。もっとも、私の頭から爪先まで全身をさしている時に限られるようでしたね。

 上野戦争の時は、山続きだったこともあって官軍に私も相当痛め付けられました。明治時代を迎え、どうやら正式な「新堀村」という名前を頂戴して落ち着いたなァと思ったら、また騒ぎが始まった。何でもそのころ使われた地方行政区画の大区小区制【だいくしょうくせい】(舌が回らんよー)とやらのうち、第五大区十四小区というところにいれられたんだが、江戸川の新堀さんもここに入っていて、郵便の誤配続き。あちらは「しんぼり」だっていうのにね。そんなこんなで、明治10年(一八七七)内務省というお役所にお願いして「日暮里」にかえてもらったわけ。

 まあ、結局、けっこう「日暮里」の名前が気に入っているということですね。それにしても、このあたりの景色、紅顔の美少年だったあのころに戻らないものかねぇ。

 花の比けうも【ころ今日も】
 あすかもあさっても
 あかぬながめに日ぐらしの里

(出典元:荒川ふるさと文化館だより第6号より)

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南千住の由来
南千住の由来

―迷子になりかけたものの気丈を装いながら―
 あたし、「南千住」。明治22年(一八八九)生れの満114歳です。これまで「地名のつぶやき」に出てきた地名【みなさん】にくらべたら、まだホンの赤ちゃんよ―バブ。私の兄弟【ブラザーズ】が荒川(現隅田川)のあっち側にいるの。「北千住」というニックネームで呼ばれているんだけど、本名じゃないのよね。エッ、あたしの地名【なまえ】はどうして付いたかっていうの?

―良くぞ聞いてくれたという表情で―
 あのね、千住という地名【なまえ】は、新井図書【ずしょ】政次という人が嘉暦2年(一三二七)に荒川で拾った千手観音様から付けたんですって。でもね本当は千葉さんが住んだから千葉住村と呼んで、後で千住村になったんだという人もいて―子供のあたしでもこれは強引だなと思うんだけど―よくわからないのよ。荒川の向こう側(北)だけの地名【なまえ】だったみたいよ。
 江戸時代の初め頃の万治3年(一六五八)、向こう岸の足立郡「千住一丁目・同二丁目・同三丁目・同四丁目・同五丁目、掃部宿・河原町・橋戸町」さんたち「千住宿」と、あたしの親の豊島郡小塚原町・中村町が養子縁組しました―ところで養子縁組って何?―。あたしの家は10の町からなる大家族の「千住宿」です。この時、愛の掛け橋になってくれたのが、文禄3年(一五九四)生れの千住大橋さんだったんだって。ロマンチックよね。
 明治時代になって間もなく、わたしの家は千住北組・千住中組・千住南組に分かれたの。「千住南組」というのがタマゴ時代の、あ・た・し。

―急に深刻な顔になって―
地名【あたしたち】の世界ではね。生れてすぐの0歳でも自分の思いとは関係なく縁組ということもあるわけで、あたしなんかよりもキャリアのある橋場町在方分・三ノ輪村・下谷通新町、三河島村・千束町(以上2つはその一部)さんを養子として迎えたの。この地名【ひと】たちは、生れたばかりのあたしの地名【なまえ】をオツムに載せて「南千住町〜」を名乗ることになったの。昭和7年(一九三二)には、みんなの地名【なまえ】が「南千住一丁目〜十丁目」にかわっちゃった。あたしだったら、耐えられないよ。自分がいなくなっちゃうみたいで。
 「あたしはどこから来たのだろう?消えて行った地名【みなさん】の歴史【こと】をどう伝えていったらいいんだろう」。ってここに来て、毎日自分探しをしてるの。

―明るい顔になりぽんと手をたたいて―
 そうだ、地名【みんな】に昔の歴史【こと】を聞いて回ろう。自分のルーツを知るためにも。

―橋の南側に小走りに走り去る―

〈出典元:荒川ふるさと文化館だより第10号より〉

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問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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