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夏休みこども特集 シリーズ あの日の記憶-3 「荒川空襲」

空襲体験者の話

Qお二人は西日暮里のお生まれなんですね。

国又----
私は昭和3年生まれです。以来、現在の西日暮里一丁目(旧日暮里町七丁目)で暮らしています。戦前は、貸し長屋に多く職人が住んでいて、道灌山通りは区内でも屈指の商店街でした。

小澤----
私は昭和6年生まれです。家業は道灌山通りの商店街に「町屋は北村園、日暮里は美どり園」といわれるほどのお茶屋を経営していました。
道灌山通りは、今と道幅は変わりませんが、戦時中には、道の両脇に1メートル幅ほどの防空壕が掘られていましたね。

Q開戦当時は、まだ学生でしたね。

国又----
私は、荒川区立第二荒川高等小学校に在籍していましたが、まともに勉強できたのは1年間で、2年生からは戦況の悪化と共に勉強どころではなくなりました。
王子にあった鉄工所、大塚製作所に強制出向となり、教官の指導で午前中は飛鳥山での軍事訓練、午後は軍需作業を行いました。

小澤----
私は、高等女学校に行くのを夢見る小学生でした。
戦時中は高等女学校の受験は学力同様に体力も重視されたので、放課後に受検課題の8段の跳び箱の練習や、校庭を100周もして一生懸命に体力をつけました。
昭和18年に入学し、平井にある高等女学校までもんぺにゲートル(足のすねに巻いて歩きやすくするもの)巻きの姿で登校しました。戦時中とはいえ英語の授業もあり、1年間は本当に充実した学生生活でした。
しかし、2年生になると空襲が次第に激しくなり授業が困難になりました。私たちは、亀戸の日立工場の挺身隊の指導で、学校内で飛行機の小さな部品づくりをすることになりました。結局この勤労奉仕は空襲で学校が焼けるまで続きました。

Q初空襲は昭和17年4月18日、尾久にあった旭電化をめがけてのものでした。その記憶はありますか。

写真

国又----
あれは開戦から半年ぐらいの時ですよね。旭電化は、今の尾久の原公園の場所です。米軍は、軍需工場だった旭電化を狙ったようでしたが、爆弾は近所の民家に落ちたと記憶しています。航空母艦から飛んで来た飛行機は、B29より小さい飛行機だったと思います。

小澤----
偵察に来たのが主な目的で、ついでに爆弾を落として行ったという話でした。

Q昭和20年になると毎日のように空襲があったそうですが。

小澤----
どんどんひどくなりました。西日暮里では「大盛湯」(現西日暮里一丁目40番)の煙突をめがけて敵機が来たんです。爆弾は煙突ではなくその前の納豆屋さんに落ちて、爆風で障子や建具が飛んですごかったんですよ。

国又----
昭和20年2月、大雪の降った後の昼間の空襲でした。遺体捜索のために隣組から一人ずつショベルを持って行き、私も手伝いました。遺体を収容したのですが、どうしても1人だけが見つからず、雪が溶けた2,3日後に、京成の高架を越えた民家の屋根で見つかりました。爆風でそこまで飛ばされていたんですね。
この空襲の後、急に地方疎開が増えました。
我が家も荷物を親戚のいる佐野(栃木県)や蒲田(大田区)に運ぶことになり、佐野までは東武電車で運ぼうとしたのですが、ひどい混雑ぶりで罹災証明書がない場合は切符が買えないというので、仕方なく自転車にいっぱいに荷物をくくりつけて、父と二人で道の悪い日光街道を2日間かけて走って運びました。その脇を連結部分にまで鈴なりに人を乗せた電車が走っていきましたよ。

小澤----
家業の「美どり園」は、戦時中は切符制の配給所として、昆布や納豆、非常食の凍り豆腐、貴重品の砂糖などを配給していました。我が家も母と妹4人が疎開しましたが、私は学校があるので父と共に残りました。何が起きても良いように夜でもゲートルを巻いたまま寝ていました。
一番酷い空襲は3月10日の東京大空襲でしたね。

国又----
それまでの空襲は昼でしたが、3月10日以降は深夜の空襲に変わったんです。この日の被害が甚大だったのは、夜間の空襲が初めてだったということもあったと思います。区内では南千住、三ノ輪から二之坪(現東日暮里2丁目)の辺り、菊池眼科(現東日暮里3丁目20番)の辺りまで焼けましたね。

小澤----
私の通っていた高等女学校も焼けてしまい、3月末からは埼玉の県立高等女学校に転校しました。一生懸命に勉強して入学した学校でしたから転校するのはすごく残念でした。転校しても勉強をする環境はなく、今度は軍需工場に通い、電気ドリルを持って飛行機の翼を作ることになりました。
それまでは学校で小さな部品をお嬢様みたいに作っていたのが、工場で「必勝」と書かれたハチマキを締めて職工さんと同じような作業をすることになったのです。

Q東京大空襲ではお二人の家は無事だったんですか。

小澤----
3月10日は大丈夫でしたが、4月13日の空襲で焼けてしまいました。空襲の激しさは「一刻一秒を争う」の言葉どおりで行く先、行く先に焼夷弾が落ちてくるんです。命がけで逃げましたね。

国又----
我が家も同じです。4月13日は、たしか夜中の11時頃に警戒警報が鳴って、すぐに空襲警報に変わったんですよ。小さい妹が「わーわー」と泣いていました。
4月13日は、3月10日より100機も多い延べ300機のB29が来襲したそうですが、3月10日の空襲の激しさと悲惨な様子を見聞きした後なので、みな初期消火などの無駄な抵抗をしないで我先に逃げ、命を落とす人が少なくてすんだと聞きます。隣組の組長さんも率先して、組員を引き連れて逃げていました。

Qどこへ逃げたんですか?

国又----
常磐線の線路伝いに三河島の駅に向かい、真土小学校の西側にあった学校農園に行きました。そこは大勢の人がひしめきあって、かえって危険だと感じられたので、父がまず3月10日の焼け跡へ下見に行き、家族全員で移動することにしたのです。
尾竹橋通りから三河島のガード下をくぐり、100メートル先の二之坪に入る道は人がごった返していましたがなんとか無事逃げることができました。
区内には鉄道線路がいくつもあるでしょう。今振り返ってみると、線路伝いに逃げることが出来たので、燃えさかる炎のなかでも道に見失う事がなく、かなりの人が助かったんじゃないかな。

小澤----
4月13日、父は母や妹たちがいる疎開先に出向いていて、私は一人でした。
空襲が始まると隣組の班長さんが来て「どんどん敵が来るから、早く逃げないと死んじゃうよ」と声をかけてくれました。よほど切羽詰まっていたのか、本当に何にも持たずにとびだし、気がつけば靴ではなく草履を履いて逃げていました。ただ平常時から「逃げる時は、神棚の水を飲んでから逃げろ」と父に言いつけられていましたので、神棚の水だけはキチンと飲みましたね。
逃げても逃げても、行く先々に焼夷弾が落ちてきます。方向転換を繰り返しながら、やっと辿り着いたのが開成中学校でした。現在はもうなくなってしまいましたが、学校の手前の坂に沿った長い石垣があって火を遮って守ってくれました。私は石垣に身を添わせ夜を明かしました。町が燃えていくのがわかっても、その様子は朝になって鎮火するまでわかりませんでした。
朝になり驚きました…まるで焼け跡は広場です。遠く尾久の方まで全部見通せるんです。周りで残っているのは、お風呂屋さんの煙突と常磐線と京成線の高架くらいでした。

国又----
それでも点々と焼け残りがあって、宮地稲荷神社(現荒川区荒川3-65)の辺りは大丈夫だったんですよね。焼け残った知人の家でサツマイモを食べさせてもらってから、我が家の様子を見に帰りましたが、宮地交差点から先はまるっきり焼け野原でした。島忠(魚屋)の前には、焼けただれた消防車が停まっていたのが印象的でした。下水のマンホールの蓋という蓋が開いていたのは、メタンガスに引火後、爆発して吹き飛んだからです。あれには驚きました。
木製の電柱は燃え落ちて、トランス(変圧器)に入っていた油がチョロチョロと燃えてました。

小澤----
焼け跡に風が吹くと、そういう油がボーっと燃えてくるんですよ。水道管はぐにゃりと曲がって、水が噴き出していました。夜になると幽霊が出そうと思うくらい焼け跡は不気味でしたね。何も無いんですから…。

Q焼け出されたあとお二人は疎開されたのですか。

写真

小澤----
私は家族がいる深谷(埼玉県)に疎開しました。当時、小学生は縁故疎開か集団疎開が義務づけられていましたから、小学生以下の子どもで空襲で悲惨な目にはあった子は少ないと思いますよ。

国又----
弟や妹は母の実家に疎開しましたが、両親と私は残って焼け跡の防空壕と掘建て小屋で暮らしました。ガスや電気は断絶していましたが消火栓からの水が使えたので、なんとか暮らせました。

Q終戦はどのように迎えられたのですか。

国又----
8月15日の正午に「天皇陛下の大事な話がある」というので、焼け残った真土小学校に家族や隣組の人と聞きにいきました。天皇陛下の声を伝えるラジオのスピーカーはガーガーガーガーと音がするだけで、その内容はよく聞き取れませんでした。
大人たちの様子で「どうも戦争が終わったらしい」とわかった時は、晴れ晴れとした開放感というか、なんとなくさばさばした気持ちでしたね。
後に北海道の友人が「終戦の日は悔しくて…」と言っていましたが、人によって受け取り方も違うような気がしますね。私は東京で度重なる空襲を経験していたから、もうあんな恐ろしい目に遭わなくて済むという事だけでも開放感を感じたのかもしれません。

小澤----
私は疎開先で玉音放送を聞きました。下を向いて拝聴していましたが内容がよくわからず「戦争負けたんだよ」と周囲が言うのを聞いて驚きました。「勝つこと」ばかりを叩き込まれていたので「負け」は意外でした。
しかし、その後に込み上げてきたのは「夜中に起されず眠れる!学校にも行ける!工場でガンガン翼を作らなくてもいい!」ということ。それが素直に嬉しかったです。
明日からの生活が大変になるということは、その時はわかりませんからね。上野周辺は戦争孤児が一杯だし「女の人は米兵に暴行される」という噂もあって、治安面が恐かったです。
ジープに乗った米兵が子どもたちにお菓子を配るのを見た時は、恐怖が先立ってしばらくの間、動けませんでした。

国又----
米兵と一緒にいる日本女性は「パンパンガール」と呼ばれました。連れ立って歩くのをよく見かけたのですが、その中に同窓生の女の子の姿を見た時は、戦争に負けるということは悲しいことだな…と、しみじみ思いましたね。

Q戦後の生活はどうでしたか。

小澤----
東京から疎開したといっても、田舎だからといって私たち家族の食糧事情が良くなったというわけではありません。 ふすま(小麦の外側)入りのご飯や、トウモロコシやコウリャン(イネ科の一年草)を米の代替食にし、父親が毎日拾い集めてくる薪を燃料に、かまどで煮炊きをしました。「野蒜」(のびる:ユリ科ネギ属の多年草。青葉や球根が食用)や、「どどめ」と呼んでいた桑の実も見つけては喜んで食べましたね。
疎開先でも台所(食料)事情は、地元の人たちとは違ってひっ迫していました。食べ盛りの幼い妹も抱える中で、学校に持っていくお弁当も満足に作れませんでした。お昼時間になると、お弁当を食べている人を見るのが切ないので教室を出て校庭をぶらぶらと歩いて時間を過ごしたことが、多くありました。今でもこの食料がなかった悲しさを思い出すと涙がこぼれます。母は、そのことでいつも私に謝っていましたが、そのとき母もどんなに辛かったことでしょう。本当に何も食べるもののなかった時代があったのです。母や私たちの晴れ着は全部食料との物々交換で消えました。大切な着物が一枚、また、一枚となくなっていくのは悲しかったですね。当時、お金には何の価値もありませんでしたからね。朝早くか疎開先の農家を訪ね交渉するわけです。ジャガイモ、サツマイモ、うどん粉などを手に入れました。それでもときたま麦や少しのお米が手に入りましたが、量も少なく、本当に家族でひもじい思いをしましたね。

国又----
それはまだ良い方です。東京の焼け野原には何もないからね。焼け跡に生える雑草をずいぶん食べましたよ。
母の着物を持って、松戸や草加の農家にも行きました。着物と交換に土間に転がっているジャガイモをもらってその日の飢えをしのぐ。明日のことはわからない生活でしたね。着替えもないから、洗濯している間は裸でいなくちゃならない。でも、何よりも食べる物がないのが、一番辛かったね。

小澤----
当時の親は我が子を生かすために、どんなに苦労したか…。私は、両親の姿が脳裏にこびりついています。
ですから現代の母親が、手抜きで子どもに朝食を食べさせないという話を聞くと「なんていう親だろう」と思います。
あの時代の事を徹底して語り継いでいきたいけれど、時代背景が違い過ぎて、今の人達にはなかなかわかってもらえないのが残念です。

国又----
あの苦しみは、どんなに具体的に話したとしても、理解はしてもらえませんよ。終戦直後は衛生状態も悪く髪をとかすと、ぼろぼろってシラミが落ちてきました。シラミの駆除にDDT(有機塩素系の殺虫剤)を頭からかけられたりね。

小澤----
本当によく生きてきましたね。
あの苦しみを理解はしてもらえないならば、平和を訴える以外ないんですよね。平和というのは平凡なようだけど、どれだけ大事なものか。また、尊く大切なものですね。
私たちは今、最高の平和の中にいます。そのことにどれだけ感謝しているか。そういう気持ちを訴える以外にないですね。

国又----
子どもの頃、大人から日清戦争や日露戦争の話を聞いたけど、戦争の話だけでは、その状況はあまり伝わってこなかったよ。だから、今の人たちが戦争にピンとこないのもわかるんだ。爆弾、焼夷弾による空襲の恐ろしさや食糧難による飢えを経験し終戦を迎えた私たちは、本当に身をもって「戦争はイヤだ」と思い平和は大事だと感じています。日清・日露戦争の勝ち戦ばかりだったらわからなかったことですよね。

小澤----
戦争はどんなことがあっても絶対にしてはいけない、そのことを伝えたいですね。

平成19年8月掲載記事
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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