荒川ゆうネットアーカイブ
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荒川区再発見5「西日暮里」

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3. 三峰神社

外観

袈裟塚耳無不動
袈裟塚耳無不動と
穴を開けたお椀
袈裟塚耳無不動と穴を開けたお椀
 「三峰(みつみね)神社」は、その境内に安置されている「袈裟塚耳無不動(けさづかみみなしふどう)」が有名です。この耳無不動は、明治元(1868)年に廃寺となった「仙光院(せんこういん)」にあったものですが、明治29年に三峰神社と共に現在地に移されました。この耳無不動にまつわる昔話をご紹介いたします。

 耳無不動を創建したのは、仙光院九世・光慧(こうえ)法師。光慧は、もと柳川藩(現・福岡県柳川市)の立花家の家臣で、田名網(たなあみ)光三郎という名でした。お絹という美しい許嫁(いいなずけ)がいましたが、恋のもつれで同藩の佐野兵馬によって江戸に連れ去られてしまいました。光三郎は江戸に上って仇を討ちましたが、お絹は新吉原(現・台東区千束)に売られてしまった後で、ふたりは生き別れとなってしまいました。

 お絹を探すのを諦めた光三郎は、出家して上野寛永寺の僧侶となり、光慧と名乗ります。ところが新吉原で紅山という遊女になったお絹と再会し、足繁く通ってしまうのです。寺のお金を使い込んだために寛永寺を追われてしまいますが、三河島村の植木屋久兵衛の計らいで仙光院の住職に招かれます。しかし光慧は既に悪疫にかかっており、耳も落ちる有様。

 そこで、光慧は仙光院門前の道に自分の法衣を埋めて「袈裟塚」とし、その上に石刻の不動尊を安置し、台石に道標を刻して諸人の便を図りました。しかし病は治らず、宝暦7(1757)年に亡くなりました。尼僧と姿を変えたお絹はその後を追い、門前の松に首をつって自らの命を絶ったと言われています(昔話については「荒川区の昔話」を御参照下さい)。

鳥居
 明和元(1764)年に、新吉原の巴屋伝助という人物が施主となって、仙光院で光慧とお絹の盛大な供養を行いました。いつしかこの耳無不動は「花柳病(性病)に霊験あり」として、花街の人々が参詣するようになったそうです。現在では耳の病にご利益があるとされ、穴を開けたお椀を奉納することで有名となりました。

 なお、三峰神社の境内には、荒川区で3番目に古い慶安5(1652)年銘の庚申塔もあります。

●住所:荒川区荒川3-22
●都電荒川線荒川区役所前停留所下車徒歩5分

問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)
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