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夏休みこども特集 シリーズ あの日の記憶-1 戦後60年「集団学童疎開」「空襲」

戦争体験者の話 学童疎開体験者 伊達修司さん(終戦当時12歳) 寮生活はまるで小軍隊のようでした。伊達修司さん

疎開先での1日

●起床
 時掌当番  6:15
 小隊長   6:20
 総員起し  6:30
●乾布摩擦/着替/床納め/清掃作業/洗面
●学寮朝礼
・人員点呼  7:30
・健康状況調査/朝の朝礼/訓話/体操及び唱歌
●朝食    7:50
●合同朝礼  8:40
人員報告/敬礼(挨拶)/宮城遙拝/祈念/戦時報道/体操/合唱
●学習(学寮座学)
・第1時限  9:00〜
       9:40
・第2時限  9:50〜10:30
・第3時限  10:40〜11:40
●自由時
●昼食    12:00
●登校
●昼礼    12:50
●学習(校舎)
・第1時限  13:00〜
       13:40(宮城遙拝)
・第2時限  13:50〜
       14:30(訓話)
・第3時限  14:40〜15:20
・作業    15:20〜15:40
●下校    15:50
●自由時
・運動    16:00〜17:00
●夕食    17:30
●温習    18:30
●娯楽時   19:30
学習発表会/紙芝居/お話会/映画他
●学寮夕礼  20:05
人員点呼/健康調査/訓話/戦時報道/反省/注意/合唱
●寝方    20:15
床のべ/着替/乾布摩擦/就寝挨拶
●消灯    20:40

(山内誠三先生による「学童錬成日課表 六日校 船引学寮から」)

写真 忘れられない思い出に、皇后陛下からの恩賜のビスケットがあります。翌日記念撮影をするというのに、甘い物に餓えていたこともあって内緒で人の分まで食べてしまった子がいました。撮影の時は大騒ぎで、結局上級生が下級生に自分の分をかしてやり体裁良く写真に収まったのです。(円内中央:伊達さん)

コラム 絵日記

絵日記

昭和21年3月に疎開生活を回顧して船引町の学寮で描かれたものです。藁半紙に描かれ、児童自身で穴を開け糸を通して製本しました。
第六日暮里国民学校児童の作品37冊は、荒川ふるさと文化館に保管されています。

Qどちらの小学校から学童疎開に参加されたのですか?

 昭和15(1940)年に第六日暮里小学校に入学しましたが、昭和16(1941)年に戦争が始まり、学校名は第六日暮里国民学校となりました。
 学童疎開に加わったのは、昭和19(1944)年8月の第一次集団学童疎開(小学校3〜6年対象)の時で、私は5年生でした。
 疎開先の福島県船引駅に降り立つと、正面に山が大きく見え「田舎だなぁ」とつくづく思いましたね。地元の名士をはじめとする大勢の方が出迎えに来てくださいました。
 船引町は近くに三春駒で有名な馬の産地があり、馬喰の宿場町でした。僕たちは7つの旅館(学寮)に別れて生活していました。それぞれの旅館は6、5、4、3年生がバランス良く混ざって40人くらいになるよう編成されています。年上が年下の面倒を見、年下は年上を見習うよう考えての事と思います。
 

Qどのような学童疎開の思い出がありますか?

 珍しい、楽しいというのは3日くらいです。その後は帰りたくて…。
 皆気持ちは同じだったのでしょう。消灯時間後布団を頭から被ってシクシクと泣く声がいくつも重なって聞こえてきました。戦局が激しくなった昭和20(1945)年3月の第二次集団学童疎開では1、2年生も来たので、特に親が恋しかったようです。
絵日記 それだけに東京から肉親が会いにきてくれた時は大変嬉しく、お土産をお腹いっぱい食べてしまって、お腹を壊す下級生もいました。
 毎晩の演芸会は寂しさを紛らわすためにやったようなものです。内容はそれぞれが軍歌を歌ったり、芸達者な先輩は忠臣蔵をやったりしました。他の学寮では狂言の太郎冠者を演じた児童もいたそうです。荒川っ子らしいエピソードですよね。また若い寮母さんによる東京の流行歌なども聴けました。まるで、昨日のことのようのように憶えていますよ。
 平和な町でしたが、それでも敵機が飛んできました。空襲警報が鳴ると、真夜中でも眠たい目をこすりながら駅のそばの横穴式防空壕まで行きました。
 実際は艦載機による空襲も一度あり、児童は避難して無事でしたが、1名の寮母さんが背中に負傷した哀しい出来事もありました。
 食料事情は悪く、お腹はいつも空いていました。大根めしや栗御飯といっても、大根や栗に点々とまばらに米がついている感じでした。
 衛生状態も悪く、たまにしか風呂に入らなかったせいか、シラミやかいせんが大発生しました。服の縫い目の所にビッチリとシラミの卵が産み付けられていて、手で一つ一つ潰したくらいです。何もかも今では考えられないことばかりです。
 

Q疎開生活はどのような日課でしたか?

絵日記 寮生活はまるで小軍隊で、6年生の勉強の出来る先輩が「小隊長」と呼ばれ、皆を統率していました。小隊長を筆頭に、班長がいて、5、4、3年生は部下です。
 小隊長の号令合図も「顔ヲ洗エ」「食卓ニツケ」「清掃作業カカレ」という具合に生活の隅々まで軍隊式に行動していました。
 今では絵空事のように聞こえますが、敵が落下傘でおりてきたところを竹槍で突く練習もしたんですよ。
 

Q終戦の日はどのように迎えられたのでしょうか?

 今日は大事な放送があるからと、駅前のタクシー会社の大きなガレージに全員集合させられました。日がカンカン照っている暑い盛りで、1年生から6年生、先生、寮母さんが一人残らずガレージの中へ詰め込むように入りました。
 これからラジオで天皇陛下がお話されるというので、一糸乱れず起立して耳をそばだてましたが、ゴトゴトした雑音で何を言っているのかさっぱりわからないのです。
学寮に戻り、暑かったなぁなどと言いながら座敷で足を投げ出していると、先生が戻られて「実は日本は今度の戦争に負けました。」とおっしゃいました。
 先生は毅然とされていましたが、先生の膝に取りすがって泣いている女の子もいました。僕は「本当にまけたのかなぁ」と思って、にわかには信じられなかったです。
 翌日からは、暫くは授業がなく、軍歌は歌えないのでシューベルトの野バラなどを先生が引くバイオリンで歌っていました。今までの軍国主義教育が嘘のように、教育方針がひっくり返りました。今までの教科書も使えないということで、軍国主義に関係する記述はスミで塗りつぶしました。「何頁の何行から何行までをスミで塗りつぶしてください。次は何頁の何行から何行まで…」という感じでした。
 「今まで一所懸命勉強してきた大事な教科書を、こんなにしちゃつていいのかなぁ」と子ども心に心配しました。
 

Q東京に戻ってきていかがでしたか?

 昭和21(1946)年3月に戻りました。常磐線三河島駅の真土小学校で解散で、親が迎えに来ました。焦土にバラックが立ち始めていましたが自分の家が何処なのかわからない程で、空襲のすごさを思いました。バラック家でしたが5月には家族が揃い、狭いながらも楽しい我が家となりました。
 それから、友人達と船引町を何度となく訪れています。成人してからは先輩の発案でお世話になった学寮の旦那さんや女将さんを東京に招待することも出来ました。
 今も船引会という同窓会をつくり旧交を温めています。
 

Q今のこどもたちに伝えたいことは。

 1年8カ月の疎開生活は、確かに辛く心細い事も多くありました。しかしながら極限のひもじさの中で、苦しいだけではない人間として大切なことを学んだ気がします。
 それは、友人との信頼感であり、先生や先輩を敬う気持ちであり、後輩への思いやりであったりします。
 今の時代は物が溢れているのに、人の気持ちは希薄ではないでしょうか。
 友人や周りの人との繋がりを大切にし、平和であることの有り難さを、もっと感じてもらいたいと思います。

平成17年8月掲載記事
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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