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生涯現役!この人に会いたい

深瀬タマエさんは大正13(1924)年3月13日生まれ。
小学校を卒業後、さまざまな事情から進学を諦めざるを得ませんでしたが、向学心を持ち続け七〇年後に荒川区立第九中学校の夜間学級に入学、今年の三月に85歳で中学校を卒業されました。
夜間学級は都内に8校有り、16歳以上で義務教育(小学校・中学校)を修了していない人ならば、年齢や国籍に関係なく誰でも入学できます。
戦後、主に就業などの事由から昼間の学校に通えない生徒の為に始まった夜間学級ですが、現在は戦争や病気、不登校などの諸事情で、小学校、中学校を卒業出来なかった人へも門戸を開いています。
深瀬さんはどのような理由から夜間学級への入学を決意したのでしょうか。深瀬さんの半生をお聞きすると「昭和」の片鱗が見えてきます。激動の時代を強くたくましく生き、そして今もなお前向きに人生を謳歌する深瀬タマエさんにお話をお伺いしました。

どのような子ども時代でしたか。

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子供時代を振り返り語る深瀬さん

私は関東大震災の翌年、富山県魚津市で9人兄弟の長女として生まれました。
兄弟が増えてくると子守りは私の仕事となり、一人を背中にしょい、二人めの手をひいて尋常小学校に通いました。今でも当時の同級生に会うと「タマちゃん、あんたいつも学校に子どもを連れてきていたね。」と言われます(笑)。家に帰っても大勢の兄弟の面倒や、身重の母に代わって家事に忙しく、宿題も皆が寝静まってからそーっと起き出してやりました。
子守りに疲れると町の図書館にいって、赤ん坊を椅子に寝かせて暫し休息です。家では本を買ってもらえなかったので、図書館で少年クラブや婦人クラブ、講談本などを読みふけりました。
御真影(天皇皇后の写真)と教育勅語を納めた奉安殿に一礼し「天皇陛下に忠義、親に孝行」という時代で、働きながら学んだ二宮金次郎がお手本でしたから、私も自分が特別に苦労しているとはひがみませんでしたね。

先生は勉強が好きだった私に、尋常小学校(6年制)を卒業したら、女学校へ進学したらどうかと奨めてくださいましたが、私はただうつむくばかりで返事が出来ずにいました。
その頃、石屋職人だった父が作業中に誤って片目を失明し、母も産後のひだちが悪く、家計は窮状を極めていたのです。
先生は両親を説得しようと我が家まで赴いてくださいましたが、あまりの困窮ぶりを目の当たりにして、全てを了解されたようでした。私に「働いて親に尽くすのも良いことだし、自分で勉強を続けて分からない所があったなら、先生が宿直の時にみてあげよう。いつでもいらっしゃい。」と励ましてくれました。

小学校を卒業して働いたのですか。

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夜間学級の教室に貼られた時間割

小学校を卒業すると、町はずれの織物工場に働きに出ました。そこは主に輸出用の人絹を製造していましたが、13歳の少女に機織りが出来るはずもなく、手作業で糸と糸をつなげる機結びから始めました。朝7時30分から10時間働いて昼休憩は30分、作業が残れば翌朝に早く出勤します。
時間外労働手当など無い時代でしたが、お金を戴けるだけで有り難かったです。給料袋を父に渡すと、うやうやしく神棚にあげて、とても喜んでくれました。その姿は今でも忘れられませんね。
そのうち父も仕事に復帰し、母の体調も安定してきたこともあり、私が15歳になると給料から一円をもらえるようになりました。
勉強を続けたいという気持ちは働いている時も変わらなかったので、そのお金で「早稲田大学講義録」という通信教育をはじめました。「文学」や「裁縫」敵国語だった「英語」まで実にさまざまな科目が用意されていましたね。

17歳で見合い話が持ち上がると、それから逃げたくて東京の叔母を頼り上京。縁があって「行儀見習い」の名目で荻窪で御屋敷奉公をすることになりました。「行儀見習い」といっても所詮は女中です。そのお宅は戦争中だというのに裕福な暮らしぶりで、食べる苦労はありませんでしたが、家人からは「タマエ!」と呼び捨てにされ、外向きには「うちの女中」と言われ、自尊心が傷つき夜は親が恋しくなって泣きました。
月に一度のお休みに同僚と浅草見物に行っても、お昼に雑炊屋さんの行列に並んだだけで終わってしまう時代でした。戦争が終わる前年まで勤めましたが、御屋敷には白米やお肉が豊富にあって、上流階級同士で物資を融通しあっていたのですから、今考えても不思議なことです。

いろんなお仕事をされたのですね。

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身振り手振りで語る深瀬さん

それから一度田舎に戻ったものの25歳で再度上京、戦後復興で活気溢れる東京で、ベニヤ工場に職を見つけました。そこでは色んなことを経験しましたね。
辛かったのは作業中に右手の人差指を失ったことです。六尺の丸い原木を剥いでベニヤ板にするためには、剥いだ部分を引っ張りだす人と、丁度いい長さの所で裁断する人のタイミングが肝要です。その日は素早く引っぱり出さないと直ぐに丸まるベニヤに奮闘し、不注意にも刃の下に手を入れてしまったのです。裁断する人の不注意も重なって一瞬で自分の指がすっ飛んでいきました。麻酔もかけずに縫合したものの一部が壊死し、切断手術を受けました。今でこそ労災問題なんでしょうが、当時は甘かったですね。
利き手の自由を失って呆然としましたが「小さい頃から大変な思いをしてきたのだから、このくらいは大丈夫」と自分を励ましたのです。

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若き日の深瀬さん(隣は最愛の夫)

主人と知り合ったのもその工場です。27歳で結婚して小台に所帯を持ち長女を出産しました。
それからは、近所の病院で下働きや保育園で給食の調理、小学校の見回りなど、荒川区内の企業や施設で77歳まで現役で働きました。最終学歴が小学校ということに劣等感を持ったことはありません。働くことで両親に心から感謝されたし、親孝行が出来たことを今でも誇りに思います。
ただ仕事にやりがいを感じても、学歴のせいで准看護婦や調理師免許などの資格を取得出来なかったことが残念でしたね。

夜間学級での思い出を聞かせてください。

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給食や行事で使った思い出深い教室

仕事を引退しこれからは夫婦の時間と思っていた矢先に、長年連れ添った主人が逝ってしまいました。これから何を生き甲斐に生きていこうかと考えた時「私は勉強がしたかったんだ!」という幼い時からの思いが心の底から噴き出してきました。
荒川区立第九中学校の夜間学級の存在は以前から知っていましたが、主人が存命中は「みっともない」と入学を反対されていたのです。勇気を出して学校に行ってみると先生が優しく迎えてくださいました。
「あなたが先に逝ったから私は学校に通えます。今日もいってきますね。」と仏壇に感謝しながら手を合わせ、自転車で通学。80代の中学生ですから、若い人から年寄りくさく見えないように、背筋を伸ばして歩きました。

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皆で寄せ書きをしたたんざく

AクラスからDクラスまであり、日本人以外にも中国や韓国など外国の方もいます。年齢もさまざまで私が在籍した三年間は私が一番年長でした。授業は九科目あり得意分野は「歴史」で苦手なのは「英語」。体育の授業も若い人と同じように受講して、体育会などの学校行事にも全て参加しました。まるで青春が甦ったような日々で毎日が楽しくあっという間に過ぎていきます。
思い出深いのは修学旅行です。働き詰めの人生で旅行といえば田舎と東京の往復くらいですから、京都も奈良も初めてでした。映画村ではお姫様の格好をして写真も撮ったけど、出来あがった写真の顔はおばあさんなのでがっかりしちゃった(笑)。
12歳の私を励ましてくださった辻先生、85歳の私を導いてくださった北島先生には感謝しています。色んなことが有りましたが学ぶ喜びは何ものにも代えがたいものです。
卒業式では卒業証書以外にも校長先生から努力賞をいただき私の大切な宝物になりました。
荒川区立第九中学校は卒業しましたが、学び続ける気持ちを忘れずにこれからも精進していくつもりです。

若い人に伝えたいメッセージはありますか。

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笑顔の素敵な深瀬さん

私が心掛けてきたのは「人を区別せず誰にでもやさしく。例え悪意を受けても善意で接すれば、心を開いてくれる日もある。」ということです。
若い人に伝えたいことは「人には親切にしてあげてください。やさしくね。」ということ。
皆さん、私にも親切にしてくれてありがとうございました。

 
平成21年7月掲載記事
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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