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トップページ > 特集 > 生涯現役! この人に会いたい! 紙芝居児童文化保存会・名作実演者 森下正雄さん
荒川ゆうネットは、平成16年から22年までに開設されていたサイトです。
内容は、掲載当時のものとなります。

生涯現役 この人に会いたい!
「慈悲喜捨 報恩感謝 日々有り難うございます」
紙芝居児童文化保存会・名作(黄金バット)実演者
森下正雄(もりしたまさお)さん

現役の紙芝居師として活躍されていらっしゃる森下正雄さんは、大正12(1923)年10月20日に東京都荒川区東日暮里で生まれました。
昭和14(1939)年、江崎グリコ蒲田工場に入社後、同19(1944)年より奉天工場に勤務。現地で兵役に召集されたのち終戦を迎えます。
戦後、家業である紙芝居屋を同25(1950)年に継ぎ、同27(1952)年第1回紙芝居コンクール優勝。日暮里を中心に40年間に渡り全国を回り続けてきましたが、平成2(1990)年に咽頭ガンで、声帯を全摘出する手術を受け、声を失いました。
一時は再起不能と思われましたが、ファンから現役時代の語りを録音したカセットテープを送られたことをきっかけに、音声に合わせて口を動かし紙芝居を行う新しいスタイルを考案しました。
紙芝居は、簡潔な物語展開、絵師による図柄、軽妙な語り口やゼスチャー、紙芝居の「めくり」の臨場感、ドラや太鼓、拍子木の音といった総合芸術です。
森下さんの声は失われましたが以前より更に朗らかな表情や表現力に、子ども達はもちろん大人達も引き込まれます。
82才の現在も月に2回ほどの公演やコンクール、イベントなどで実演を行い精力的に活動を続けてらっしゃいます(平成20年12月にお亡くなりになりました)。

※一部筆談と病床日記からの抜粋でお話を伺いました。

 

森下さんのお父様も95才まで現役だったそうですね。

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在りし日の父とともに

 我が家は大家族で、私は男3人女5人の8人兄弟の上から4番目でした。もともと父は指物職人で家具の製造をしていましたが、昭和2(1927)年から始まった昭和恐慌の不景気の影響で商売が行き詰まってしまいました。
 生活に貧窮していた父に、近所に住む紙芝居の貸元「松島家」の親方である佐々間氏が「子ども相手の商売だが仕事が閑ならば紙芝居屋になってはどうか」と勧め、商売替えをしたようです。もともと話し好きだった父は、その後、佐々間氏の後を継いで「松島会」を名乗り、私の他に兄2人と妹の夫も紙芝居師になりましたので正に紙芝居一家でした。
 全国5万人の紙芝居師の中から唯一、業界初の勲六等瑞宝章を90才で頂き、95才まで現役を続けた父の天職だったと言えるでしょう。

※貸元とは、紙芝居師達に紙芝居を貸す元締めのこと。東京では8社の貸元があった。かつて紙芝居師が3500人以上いた東京の中でも荒川区は200人を数え、画劇製作所も多かったことから紙芝居発祥の地と言われている。

 

戦争では厳しい体験をされたと伺いましたが。

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昭和7年日暮里旭町に於いて

 父が江崎グリコの宣伝部に出入りしていた関係で、昭和14(1939)年に蒲田工場の職員見習生の試験を受け、20人中一番ビリで合格しました。
 しかし昭和17(1942)年頃から戦争の影響で物資が不足し、半日の操業しか出来なかった折、軍需景気で江崎グリコの奉天工場と天津工場では製造が追いつかない程仕事が有ると聞いて、奉天工場への転勤を希望しました。
 昭和19(1944)年には徴兵令状により現地で満州287部隊に入隊し、輜重兵として兵役に就きましたが、直ぐに急性肺炎に罹り陸軍病院に入院しました。退院後は、歩兵として残留部隊になり現地に残りました。以前の部隊に戻っていたら、南方に出兵し全滅の運命でした。
 その後、終戦を迎え昭和20(1945)年から、零下30度、40度の厳寒の地であるシベリア抑留生活を4年間体験し、その間に多くの仲間が栄養失調や凍死で倒れていきました。
 辛く苦しい戦争でしたが、不思議な縁で生死を乗り越えて何度も命拾いをしたと思います。
 若いという事もあったでしょうが「もうダメだ」とは決して思わず、常に前向きであったことが私を生き延びさせたのかもしれません。シベリアでは、演芸会で紙芝居講談を実演するなど楽しみも見つけていました。

 

紙芝居師になられた経緯を教えてください。

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松島会の制作による「手を振る子」表面にニスを塗り強度を高めた

 

 復員後は、江崎グリコ蒲田工場に再度勤務したいと考えていましたが、大空襲で煙突だけ残して焼け野原となっており、大阪工場の再開を知っても片道の交通費が工面出来ず諦めました。
 そんな状況下でやむなく親の家業を継ぎ紙芝居師と成りましたが、本来の子ども好きと「おじちゃんまた来てね」の声に励まされ、一生の仕事となりました。
 昭和28(1953)年に始まったテレビ放送は、昭和32(1957)年頃から急速に家庭に普及し始めました。子ども達の関心は、電気紙芝居「テレビ」に移り紙芝居に対する興味が薄れ始めました。その後は、子供の数も減少しはじめ段々と商売が難しくなっていきました。何度も辞めようと思いましたが、父の功績を守りたいという思いと、妻の後押しに支えられて続けてきました。
 40年に渡る街頭紙芝居生活の間では、親子二代に渡り私の紙芝居を見て育った子どもの成長を見守れるなどの嬉しい出来事もあります。
 荒川区ではよく日暮里南公園でマンガ・なぞなぞ・続き物などの演目を行いました。昔は大きい子も小さい子も一緒になって学校以外の社会で遊んだり、学ぶ環境が沢山あり、多少ケンカがあってもガキ大将が仲裁したものです。
 昔に比べ今の子どもは、外で遊ばなくなり家でゲームばかりしています。本来は子ども同士で、外で様々な遊びを通して楽しく学び合い、成長していくものではないでしょうか?

 

平成2(1990)年に咽頭ガンの宣告を受けられた時のことを教えてください。

 平成2(1990)年、喉に異常を感じ、医者から咽頭ガンと宣告されました。
 自分では声がかすれて出なくなった事をガンと決めつけられた気がして当初は、実感がありませんでした。
 声帯のおできは骨に囲まれている中にあるため、一時的に放射線治療で抑えられたとしてもこれが大きくなれば、舌、食道、扁桃腺、また気管を通して肺まで侵される危険があるため、手術は急を要しました。「何とか切開手術だけで済むならば。」と願いましたが、声帯の全摘出は避けられませんでした。
 子ども達の夢と思い出が大人になっても心に残るようにと、人生の荒波を踏み越え40年間続けてきた紙芝居です。児童文化紙芝居の価値が見直され、各種イベントに忙しくなってきた時期だけに、声帯を取り除くことがいかに無念であるかは本人でなければ解せないものだと思います。
 「手術前夜これが最期のわが声と独りひそかにテープに吹き込む」これは、9月10日の手術前夜の心境を句にしたものです。喉頭癌患者ばかりの6人部屋で、消灯後に他の入院患者さん達の迷惑にならないように、カーテンを閉めて小さな声で「黄金バット」を録音しました。「冒険空想大活劇、お馴染み黄金バット 怪タンク出現。見渡す限りの太平洋上を今、一隻の汽船ハッピーネス号が西へ西へとのどかな航海を続けております…」ところが語り終わった時、拍手が起こりました。
 既に手術で声を失った同室の5人の患者さんが、私の最期の観客になったのです。私は感動のあまり涙が止まりませんでした。

※「黄金バット」の紙芝居は、昭和5年に初めて街頭デビューしました。最初に黄金バットは、悪事を働く黒いバット、ブラックマンを退治する正義の味方として登場しました。当時流行っていたゴールデンバットという煙草からヒントを得て、「黄金バット」名付けられました。戦前戦後を通じて長くシリーズが続いたために紙芝居といえば黄金バットといわれる名作になりました。

 

リハビリの最中に送られてきた手紙とテープが復帰への足掛かりと伺っていますが。

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  手術後は口も利けず不自由な体となり、じれったいやら情けないやらという心境でした。
 そんな状態の中で、親身で優しい思いやりのある言葉や真心に、自分でも泣き虫になったと思うくらい「有り難う」と感謝が溢れ男泣きしました。
 たとえ声は出なくても紙芝居を見る子ども達に語りかけたい、また皆さんの温情に応えたいと「食道発声法」に励んでいる最中に、かつて公演で訪れた四国の丸亀からカセットテープが送られてきました。そこには「子どもさん達に黄金バット、その他の紙芝居を口を動かして見せてあげてください」と手紙が無記名で添えられていたのです。テープには、私の当時の語りが6話録音されていました。私の現在の紙芝居スタイルはこのテープと手紙があったために実現しました。何処の誰が送ってくださったのか、送り主は現在も不明のままです。このテープのおかげで第2の人生をスタートすることが出来た事を思うと、神様からの贈り物としか思えません。
 紙芝居を見つめる子ども達の目は、声を失う前も今も変わらず、その笑顔は更に私を励ましてくれます。

 

生涯現役で紙芝居を続けていらっしゃるのは何故ですか?

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下町風俗資料館(上野)での実演

  今まで続けてきた私の信念は、子どもの夢と思い出が大人に成っても残るよう、そして障害者の方に私の姿を見て前向きに人生を考えて頑張ってほしいという理由からです。
 紙芝居をすることで、皆さんから元気や勇気をいただいているからこそ現在八十路過ぎの今日まで、明るく楽しく元気良く、「有り難う」という感謝の心を持ち、笑顔で過ごすことが出来るのです。


 

  • 下町風俗資料館(上野)にて定期実演されています。スケジュールはホームページを参照ください。
    http://www.taitocity.net/taito/shitamachi/news.html
  • 江戸東京博物館(両国)の映像ライブラリー
    森下さんの記録映画「紙芝居やさん(平成元年撮影)」を無料でご覧になれます。

 

 
※森下正雄さんは、平成20(2008)年12月にお亡くなりになりました。


平成18年5月掲載記事
問い合わせ先 荒川区管理部情報システム課
電話:03-3802-3111(内線 2151)

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