荒川区の概要

更新日:2010年3月31日

名前の由来

 荒川区の北東部を流れる隅田川は、昭和39年まで荒川と呼ばれていて、このことが区名に採用されました。
 隅田川というのは、荒川下流部(白鬚橋辺りから)の呼び名となっていました。
 現在の河川法施行後は、荒川放水路を荒川と呼び、その分岐点となる岩淵水門(北区)から下流が隅田川となっています。

場所

 東京都の北東部に位置し、台東・文京・北・足立・墨田の5区に隣接しています。
 荒川区は、東西に長く、その大部分は起伏が無く平坦ですが、南西部(日暮里地域)に山手台地の一部があり、区の北東部を迂回するように隅田川が流れています。
 現在、区の地域は、南千住・荒川・町屋・東尾久・西尾久・東日暮里・西日暮里の7つの地名があります。

歴史

 縄文・弥生時代には、荒川区の地域の大部分が、東京湾で日暮里の台地だけが岬になっていました。このことは、この台地から道灌山遺跡や日暮里延命院貝塚も発見され、当時に集落があったことが確認されています。
 古くから荒川区は、陸・海の交通拠点、戦略上の要衝として栄え、特に江戸時代には、水戸道中と奥州・日光街道中の分岐点としてにぎわいをみせていました。
 そのため、区内には数多くの史跡や文化財などが残っています。
 明治時代になると日本で初めての官営羊毛工場を始め、大工場が相次いで設立され工業地帯が形成されていきました。
 大正2年には王電(現在の都電荒川線)が開通し、宅地化が進み、また大正3年に鉱泉が発見されたことにより、花街の三業地(料理屋・芸者置屋・待合)としても大いににぎわいを見せていました。(現在はありません。)
 ちなみに、かの有名な「阿部定事件」は、この地区の待合茶屋「満佐喜」でおこったものです。
 昭和の初め頃、紙芝居を製作・貸出しをする会社が荒川区にでき、たくさんの紙芝居屋が街のあちらこちらに自転車で現れ、子どもたちに夢と希望を与えていました。また、駄菓子問屋街もあったり、そして街中にあるたくさんの駄菓子屋の奥には、鉄板が備え付けられ、もんじゃを焼いて食べることのできる場所もあり、下町情緒たっぷりの今で言う、レトロ感覚溢れる場所でした。

 現在の荒川区は、古くからの歴史や下町風情を随所に残しつつ、また各地域の新しい街づくりも進み、新しさと懐かしさが混ざり合いながら、人と人とのふれあいを大切に幸せな街づくりを進めています。

観光振興課

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